キャサリーン・ヘップバーンと空蝉


デヴィッド・リーン監督映画「旅情」(原題Summer-time)に出てくるヘプバーンを見ていると、私はなんということもなく「源氏物語」の空蝉のことが思いだされるのである。

ヘプバーンはアメリカの、もうそれほど若くない独身の女性秘書の役である。彼女は休暇をとって、こつこつ貯えた金で、ひとり憧れのヴェニスへの旅に出かける。映画は列車がヴェニスの駅に近づくところから始まる。彼女は列車の窓から美しい水の都の風景を見て夢中になり、しきりに撮影機をまわす。しかし美しいヴェニスの街なかで痩せぎすな彼女は、ときおりふっとなんともいえない寂しげな横顔を見せる。そんな彼女が、ある日ふとしたことから年配の骨董店の主人と恋におちる。二人がヴェニスの港の壮大な落日を背景にして語り合う場面は、彼女が今までアメリカで送った灰色の日常生活のなかでは、決して味わうことのできなかった至福の時間であった。彼女はこのときはじめて人生を経験する。しかし至福の時間はたちまち過ぎ去る。男には妻子があったことが分かる。男は妻を離別するから結婚してくれと女に嘆願する。女の心はゆれ動くが拒否する。くちなしの花を運河に落として、彼女は必死にそれを拾おうとするが、どうしても手がとどかず、花はながれ去ってしまう。彼女は愛を断念して、来たときと同じ駅からアメリカに向かって発つ。そのときホームに男が駆けつけてきて、彼女にくちなしの花をわたそうとするが、すでに列車は動き出していて、花はホームに落ちる。最後に女が車窓から身を乗りだして、男にむかって何度も何度も手をふるところで映画は終わる。ゆっくりふられる手の表情は深いかなしみを表している。彼女が帰ってゆくところは、いつまでもつづく灰色の日常生活である。
いま私がヘプバーンに空蝉を重ね合わせるのは、寂しげな横顔や腱ばかりのような痩せた腕などの印象だけからではない。空蝉の容姿は

頭つき細やかに、小さき人のものげなき姿ぞしたる(はえない姿をしている) (略)手つきやせやせにて、いたうひき隠しためり。(「日本古典全書」以下同じ) (空蝉)

と書かれている。しかし私が空蝉を連想するのはそれだけではない。所詮愛の断念の意志からきている。
空蝉もただ一夜の源氏との偶然の逢瀬によって、今まで夫伊予介との日常的な夫婦生活でまったく知らなかった、新しい生を経験する。しかし理性的な彼女は一方では深く心を惹かれながら、ただ一度の逢瀬を最後として源氏への愛を断念する。

とてもかくても、今はいふかひなき宿世なりければ(何れにしても、今となってはどうにもならない受領の妻という宿命なのだから)無心に心づきなくて止みなむ(情知らずの嫌な女として押し通そう)と思ひ果てたり。(帚木)

心底では愛しながら「無心に心づきなくて止みなむ、と思ひ果て」る愛の断念は苦渋にみち て哀しい。そうして親子ほど年のはなれた夫とともに任地伊予に下る。それからの彼女には「まぎるることなきつれづれ」(蛍)の灰色の日常生活が、いつ果てるともなくつづくはずである。思うに空蝉という女性は、境遇・性格の相似から、作者自身の最も深い投影の見られる人物の一人ではなかったか。

人がらのたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地して、さすがに折るべくもあらず。(帚木)

これは源氏から見た空蝉像であるが、よく作者の性格を衝いている。古来空蝉が作者の自画像と見られたことも、こういう所からきているのであろう。だからこそ作者は、空蝉を空蝉巻で終わらせるに忍びず、物語の進展とは何の関係もない掌篇関屋巻を書き加えた。 この巻は二人が逢坂関で、すれちがうだけの話であるが、しかしここで始めて二人が別れてから十七年の歳月がながれ、源氏は内大臣となり空蝉は旧態依然として受領の妻であり、源氏にとって空蝉は路傍の草花にすぎなかったが、空蝉にとって源氏は生涯ただ一人の忘れがたい男であったことが明らかになる。

(空)行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ
(源氏は)知り給はじかし、と思ふに、いとかひなし(関屋・傍点筆者→太字)

いとかひなし」という言葉に作者は、どれほどの思いをこめたか。 なお右の歌について「岷江入楚」は「心の内に源氏をふかく思う心は見えたり」と書いている。

千年の時間のへだたりを超え、日本とアメリカとの違いを超え、女の生きがたいかなしさの、不思議な暗合に私は想いふけるのである。