アンナと六条御息所
トルストイの「アンナ・カレーニナ」が書かれたのは1876年のことであるから「源氏物語」の書かれた1010年(?)からは、およそ860余年の隔たりがある。にもかかわらず両作品には何となく似通ったものが感じられるのは、私の僻目であろうか。たとえば
主題について。
周知のように「アンナ・カレーニナ」の副題には―復讐は我にあり、我これを酬いむ―という聖書の言葉が付せられている。「復讐」という言葉の意味についてはいろいろ説があるようであるが、復讐がこの小説の主題になっていることについては問題はあるまい。「源氏物語」の主題も(すくなくもその一つは)復讐にあったといえるのではないか。女三宮に若君誕生(じつは柏木の子薫)のことを聞いた源氏が「さてもあやしや。わが世と共に、恐ろしと思ひし事の報いなめり」(柏木)と思うところがある。源氏はここで痛烈に復讐される。これまでの長い光りかがやく栄光の座から、一人のみじめな老残の姿に顛落した源氏がここにいる。
構想について。
「アンナ・カレーニナ」の初めのところに、アンナとウロンスキイが出会うモスクワの駅で、線路番が車輛におしつぶされて死ぬところがある。線路番の不幸な死をきっかけにして二人の恋は始まる。小説の途中でアンナはしばしば「一人の小柄な百姓が、なにやらぶつぶつ咳きながら、鉄の上で何かしてゐた」夢をみる。そして最後に彼女は、ウロンスキイとの恋に絶望して車輛の下に身を投げる。
「源氏物語」も、最初源氏の若い母桐壺更衣の不幸な死から、光源氏の恋の遍歴は始まる。さまざまな女性遍歴の原点は亡き母の面影にあった。そして最後に最愛の女性紫上の死に会って源氏の生涯も終る。「源氏物語」でも人相(桐壺)や夢見(若紫)や宿曜(澪標)に予言がなされ、それらがすべてそのとおり実現する。
人物について。
アンナは国務大臣の夫も八つになる男の子も地位も名誉も全部投げすてて、愛人ウロンスキイのもとに奔る。しかし彼は彼女との愛のみに生きるために、彼の属する貴族社会を捨てることができない。やがて別れが訪れる。最後に彼女は、自分たちの恋はいったい何であったか、と考える。
一たいあのひとはわたしに何を求めてゐたのだらう? 愛よりも、虚栄心の満足の方がよけいだったのだわ〉彼女は、二人の結ばれた当時の彼の言葉や、従順な猟犬を思はせるやうなその顔の表情を思い浮べた。(略)〈わたしの愛はだんだん情熱的に、利己的になってゆくのに、あの人の愛は、だんだん衰へて消えてゆく。(略)これはもうどうにもしやうのないことなのだ。わたしにしてみると、すべてがあのひと一人にあるので、あのひとが少しでも多く、そのすべてをわたしに与へてくれることを要求する。ところがあのひとは、ますますわたしから遠ざかってゆかうとしてゐる。わたし達はつまり、結びつくまでは雙方から接近したのだけれど、それからは、抑へがたい勢ひで別々の方向へはなれていってゐるんだわ。これは、どう変へやうもないことなのだ。あのひとはわたしに、わたしが無闇に嫉妬深いやうに言ふし、わたし自身も自分に、わたしが無闇に嫉妬深いやうに思ってゐた。けれど、これは本当ではないわ。わたしは嫉妬深いのではなくて、不満なのだわ云々〉。(中村白葉訳・岩波文庫第六冊)
人生について、愛について、幸福についてアンナの考えることは、そっくり六条御息所と同じであるような気が、私にはされるのである。たぐいまれな美貌と教養の持主である故前坊の未亡人御息所は、八つになる娘がありながら、七つも年下の源氏のしつこい求愛についに負ける。その後彼女の源氏への思いはつのるばかりなのに、男の方はしだいに女からはなれてゆく。男は女の「いと物をあまりなるまで思ししめたる御心ざま」(夕顔)が息苦しいのである。御息所にとっては源氏はすべてであるが、源氏にとって彼女は多くの女性のなかの一人に過ぎない。新斎院御禊の日葵上の車に辱しめられた御息所の怨念が、産褥にある葵上に憑いたところを、源氏に見られることによって、二人の愛は決定的な終末を迎える。彼女は源氏への愛をついに断念して、娘の斎宮とともに伊勢下向を決意する。「よろづのあはれを思し棄てて、ひたみちにいで立ち給ふ」。(賢木)
彼女が伊勢から帰京して、ふたたび源氏に対面したのは、死の床においてであった。(澪標)