ジェルソミイナと末摘花


イタリア映画「道」(フェデリイコ・フェルリイニ監督作品・1954年)に出てくる頭のすこし変な少女ジェルソミイナ(ジュリエッタ・マシイナ)と赤鼻の末摘花とをいきなり結びつけるのは、どうも突飛に過ぎるようにみえる。ジェルソミイナは貧農の娘で、一万リラで大道芸人のザンパノ(アンソニイ・クイン)に売られ、それから飲んだくれのザンパノの助手兼女房として大道で芸当を演じながら旅をつづけ、最後に雪のふる道ばたに、男に捨てられおいてきぼりになるあわれな女である。末摘花はれっきとした故常陸親王の愛嬢で、零落したとはいえなお格式高く、多くの女房にかしずかれるお姫様である。二人は出身も身分も境遇も生活もすべて違 う。にもかかわらず、私が敢えて二人のイメージを重ね合わせるのは、つぎのような理由によってである。

第一、二人とも赤ん坊のように無垢な魂をもつ女である。第二、二人とも道化喜劇的存在であるのに、その裏に厳粛な人間悲劇の感じがこめられている。第三、二人とも生活的にはまったく無能力であり、何ひとつできないが、ただジェルソミイナはラッパを吹くこと、末摘花は琴を弾くことだけできる。

末摘花もジェルソミイナと同じように、徹底的に道化の役割をふり当てられる。彼女は容貌のみならず言語・行動・趣味・教養すべて不器用で非常識で、琴のほかに何ひとつ取り柄もない。源氏はそうした彼女をふびんに思って、経済的にいろいろ世話をする。しかし源氏が須磨・明石に去った後は、世話も絶えて邸宅は荒廃し、生活は次第に窮迫する。窮状を見かねて女房たちは、邸宅や調度を処分することをすすめるが、彼女は

「あな、いみじや。人の聞き思はむこともあり。生ける世に、しか名残なきわざはいかがせむ。かく恐ろしげに荒れはてぬれど、親の御かげとまりたる心地する古きすみかと思ふに、なぐさみてこそあれ」と、うち泣きつつ、思しもかけず。(蓬生)

邸宅を売ることなど思いもかけない。かくて女房たちも、つぎつぎに行き散ってしまい、なかには「命堪へぬもありて、月日にしたがひては上下(かみしも)の人数すくなり行く」(同前)状況になる。しかし末摘花は、かけ離れて久しくなった源氏に、なお頼みをかけ「風のつてにも、わがかくいみじき有様を、聞きつけ給はば、かならず、訪ひ出で給ひてむ」(同前)と信じて「心づよく、おなじさまにて、念じすぐし給ふ」(同前)のである。叔母に当たる典型的な俗物である大貳の北の方が、おためごかしに筑紫下向をすすめるのに対して、彼女はただ一言

「いとうれしきことなれど、世に似ぬさまにて、なにかは。かうながらこそくちも亡せめとなむ思ひ侍る」(傍点筆者→太字)(同前)

と答える。彼女は自分の容貌のみにくいことも、生活上まったく無能力であることも知りつくしている。「かうながらこそくちも亡せめ」という詞のひびきは重くきびしい。彼女はこのときすでに、荒れはてた父親王の家とともに、野たれ死をすることを覚悟しているのである。彼女は、源氏が助けに来てくれることさえ、もはや信じてはいない。ただふりかかる苛酷な運命に、ひとりで耐えるだけである。彼女が野たれ死をしなかったのは、たまたま源氏がその家の前を通りかかり、彼女のことを思いだしたからである。

ザンパノに捨てられたジェルソミイナは野たれ死をする。数年後の夏の日、ふたたびその土地にやってきたザンパノが道を歩いていると、もの悲しい歌声が聞こえてくる。彼はハッとする。それはまぎれもなく、ジェルソミイナがラッパで吹いていた歌であった。男はそれを歌っていた女に、どうしてその歌を知っているのかと訊ねると、四・五年前に自分のところにいた女から聞いたという。その女が行きだおれになっていたところを、自分の夫が助けて家においたのだが、体がすこし良くなると、日向に出てはラッパを吹いていた。しかしある朝、その女は目を覚まさずに死んでいた。ザンパノはこの話を聞くとたまらなくなり、酒場で酔いつぶれ、手あたり次第に喧嘩をし、とうとう夜の海岸にさまよい出て、砂浜にうずくまって慟哭する。映画「道」はここで終わる。(飯島正著「世界の映画」1958年版・白水社刊による)

ジェルソミイナと末摘花とを結びつけるのは突飛に過ぎるだろうか。二人は道化のまま道化を超える。道化のままで、厳粛な精神の高貴性を象徴する悲劇的人物として昇華しているように私には思われるのである。 



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