ウェルテルと柏木
ゲーテの「若きウェルテルの悩み」(1774)のウェルテルと「源氏物語」の柏木を比較することは、これまでにもましてとっぴきわまることと思われるだろうか。もともと両作品は時代・人物・思想・様式どれひとつとってみても明らかに異質である。前者は十八世紀後半ドイツ疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)時代を代表するロマン主義の作品であり、後者は十一世紀初頭日本古典主義を代表するそれである。にもかかわらず、いま私がウェルテルと柏木を比較してみたい誘惑をおさえることができないのは、その愛と死のありかたについてである。
さきばしって結論をいっておこう。二人は不幸にも愛してはならない一人の女性を愛してしまった(アルベルトの妻、源氏の妻。アルベルトも源氏も現実の世界を代表する有能で立派な人物である)。しかもその愛は地上の他のいかなる女性を以てしても替わることの不可能なほど完璧に純粋な愛の極北をさし示すものであった。そういう愛の本質は日常世間の常識と論理を超えるものであり、それはしょせん二人の内部の想念のなかにしか生きることを許されないものである(ウェルテルにとって、ロッテ以外の女性との結婚はまったく考えられない。柏木にとって、女三宮の姉宮との結婚によっても、女三宮への思いはまったく変わらない)。したがってこういう愛は、現実の世界では、最初から実現の可能性は断ちきられているのであって、結局「死に到る病」(芳賀檀訳・創元社・第一巻1771年8月12日)によって終結するほかどうしようもないように運命づけられている。自殺と病死との違いはあるが、二人の死が本質的に運命的・必然的なものである点において共通する。
ウェルテルにとって恋人ロッテは、最初から到達不可能な存在であった。なぜなら彼女には、いかなる点からみても現実的に彼に勝ち目のない有力な婚約者アルベルトが控えていたからである。にもかかわらず彼が何者にも換えがたく運命的に彼女に惹かれるのはなぜか。ウェルテルにとってロッテは決してたんなる客観的・現実的個体ではなかった。彼女はそういう個体を超えてウェルテルの心が描きだした主観的・象徴的な風景であったのである。それは「絶望的なお上品な階級のおつきあい」や「全心全霊ただ儀礼にのみ汲々として」(竹山道雄訳・岩波文庫・第二巻1771年12月24日・1772年1月8日)いる身分社会から完全に解放された独立自由な心情の支配する世界である。ウェルテルはロッテのなかに完璧に純粋な愛の姿をみる。しかしこのような愛はそれが完璧に純粋であるかぎり、かならず破滅しなければならない。ウェルテルが最期にロッテに宛てて書いた手紙は
きまりました。ロッテ、私は死にます。あなたを見るのもこれかぎりの日の朝に、あなたにあてて、なんの感傷的な誇張もなく、平静に書いています。(略)自分は死のう!これは絶望ではありません。確信です。自分は堪えぬいてきた、そしてあなたのために犠牲になる、その安心です。ロッテ!このことを黙っていなくてはならぬことはありますまい。われわれ三人のうちの一人が去らなくてはならないのです。私がその一人になろう、と思うのです。(略)あなたが美しい夏の夕べ、丘の頂きに立ったときには、どうか私のことを、私もよくその谷を上ってきたことを、思いだしてください。それから、落日の影のさなかに風の吹くままに高い草がゆらぐあたり、墓地をながめて、私の墓の方を見はるかしてください。(岩波文庫・「編者より読者へ」)
また次のように書く。
アルベルトがあなたの夫であるということがなんでしょう?夫!この世ではたしかにそうです。そして、この世では、私があなたを愛し、あなたを彼の腕から私の腕に奪おうとすることは、罪でしょう。罪?よろしい。私はそれに対して自分を罰します。この罪を私は、そのもつ天の歓喜を傾けて味わい、生の香油と力を心臓の中に綴りこみました。このときから、あなたは私のものです!おお、ロッテ、私のものです!(同前)
因襲的な貴族社会のなかにあって、完璧に純粋な愛を完結させるためには死以外に道はなかったのである。この際死は逃避ではない。人間における自由な意思の威厳を立証するためのものであった。(岩波文庫・解説)
柏木は好き者の理想像である光源氏の反措定として造型される。源氏から「公卿といへど、この人(柏木)のおぼえに、必ずしも並ぶまじきこそ多かれ。さる中にもいとしづまりたる(落着いた)人なり」(胡蝶)また「右の中將(柏木)は、ましてすこししづまりて、心はづかしき気(こちらが恥ずかしくなる感じ)まさりたり」(常夏)と評され、朱雀院からは女三宮の婿がねの品評にあたって「高き志深くて、やもめにて過しつつ、いたくしづまり思ひあがれる(己れを高く持する)気色、人には抜けて、才などもこともなく(学問なども欠点がなく)つひには世のかためとなるべき人なれば、行末たのもしけれど、なほまたこの為(女三宮の夫)にと思ひはてむ(決心する)には、限ぞあるや(身分に不足がある)(若菜上)と評され、婿がねの選から洩れ、源氏が幼い女三宮の庇護者として選ばれる。この時、父朱雀院の選定の基準には世俗的な功利性があり、これを承ける源氏の心底には藤壺のゆかりへの好き心があった。ここに柏木の悲劇の出発が用意される。女三宮との密通露顕後、朱雀院御賀の試楽の行なわれる日、六条院に参上した柏木の様子は「げにいといたく痩せ痩せに青みて、例も誇りかにはなやぎたる方は弟の君達にはもて消たれて、いと用意あり顔にしづめたるさまぞことなるを、(今日はとくに)いとどしづめてさぶらひ給ふさま」(若菜下)と書かれている。柏木没後親友の夕霧も「いとようもてしづめたる上べは、人よりけに用意あり」(柏木)と追想している。
以上例示したように「用意あり顔にしづめたるさまぞことなる」理性の人柏木が、最初から成就不能の自明な、女三宮への愛を、ただひとすじに逃れようもなく「昔より、かく命も堪ふまじく思ふ」(若菜下)のはなぜか。六条院の絶対権力者源氏の正妻を愛することが、小侍従ならずとも誰が考えても「かひなき事」(若菜上)であることは自明の理である。そのことを理性の人である柏木が知らぬはずはない。たとえば
かかる人(源氏)に並びて、いかばかりの事にか、心を移す人はものし給はむ(これほど立派な夫に添っていながら、どうして別の男に心を移す妻があろうか)何事につけてか、あはれと(柏木を)見ゆるし給ふばかりは、なびかし(女三宮の心を)聞ゆべき、と思ひめぐらすに、いとどこよなく(女三宮の)御あたりはるかなるべき身の程も、思ひ知らるれば、胸のみ塞りて(柏木は)罷り出給ひぬ。」(同前)
によって明らかである。のみならず女三宮を愛することは、きわめて危険でさえある。なぜならそれは「院のためなまゆがむ(不逞な)心や添ひにたらむ」(若菜下)と思われても仕方のないことだから。この「なまゆがむ心」は、やがて密通に到ることの予告であり(重松信弘「源氏物語の心理描写」)そして密通は究極的に破滅につながる。柏木は女三宮への愛が不可能であり破滅に終わるほかないことを知りながら、自らの意志ではどうしようもない「もの狂ほし」(同前)い力に引きずられて、一歩一歩「死に到る病」(「若きウェルテルの悩み」)に近づいてゆく。それはウェルテルと同じく運命的としか言いようのないものであった。
女三宮はいったいどういう人物であるか。女としてのたしかな存在感さえ持ち得ない「あやしくものはかなき心ざま」(若菜上)の皇女として、最初に紹介される。柏木はこのような幼稚な、たよりない皇女に「まだ宮幼くおはしましし時より、いと清らになむおはします、帝のかしづき奉り給ふさまなど、聞きおき奉りて、かかる思もつきそめ」(若菜下)爾来一貫して思いつめる。幼さは六条院降嫁後七、八年たってもすこしも変わらず「二十一二ばかりになり給へど、なほいといみじく片なり(未熟)に、きびはなる(幼い)心地して、細くあえかにうつくしくのみ見え給ふ」(同前)有様である。このような実体を欠く人妻を柏木が危険をもかえりみず、「命も堪ふまじく」恋うのはなぜか。彼女が一個の客観的・現実的個体ではなく、柏木の内部の想念が生み出した主観的・象徴的理想像であったからである。その理想像の純粋性・完璧性はあらゆる常識的・理性的論理をこえる。ちょうどウェルテルにおけるロッテの存在がそうであったように。
柏木の愛の純粋性は、源氏が宮を愛していないという風評を許すことができない。そして「かたじけなくとも、(自分なら宮に)さるものは思はせ奉らざらまし」(若菜上)とまで思う。宮は源氏から正当に愛されてはいない、宮の結婚生活は幸せでない、ということを聞いて柏木の心は乱れる。「いとほしくも口惜しうも、如何思ひ乱るる」(同上)この惑乱が密通と死を運命的に呼び寄せる。ちょうどロッテとアルベルトの結婚が幸福そうにはみえないことへの、ウェルテルの忿懣が密通と死を運命的に呼び寄せたように。死を前にして柏木は宮へ手紙を書く。
行方なき空のけぶりとなりぬとも思ふあたりをたちははなれじ(火葬にされて行方知れぬ煙となっても私の心はあなたのお側を離れますまい)。夕はわきて(空を)ながめさせ給へ。とがめ聞えさせ給はむ人目(源氏の目)をも、今は心やすく思しなりて、かひなきあはれをだにも絶えず(私に)かけさせ給へ。(柏木)
これはウェルテルが最期にロッテに宛てて「落日の影のさなかに風の吹くままに高い草がゆらぐあたり、墓地をながめて、私の墓の方を見はるかしてください」と書いたのに対応する。柏木没後夕霧は回想する。
いみじうとも(どんなに宮を思ったにしても)さるまじき事(密通)に心を乱りて、かくしも身に代ふべき事にやはありける(命と引換えてしまうべきことか)人(宮)の為にもいとほしう、わが身はた、いたづらにやなすべき(破滅に追いやることがあるか)さるべき昔のちぎりといひながら、いとかるがるしう、あぢきなきことなりかし(軽率でつまらないこと)。(同前)
常識的にはまさにその通りであろう。しかしほんとうに柏木の行為は軽率でつまらないものであったのだろうか。じつはそれは深いところで、絶対者源氏の主宰する六条院世界の秩序を突き崩す痛烈な批判ではなかったか。ちょうどウェルテルの死が、アルベルトの代表する因襲的貴族社会の秩序を突き崩す痛烈な批判であったように。