「蜻蛉日記」と「源氏物語」
蜻蛉日記」と「源氏物語」には初瀬詣でのことが出てくる。前者には二度(安和元年・九六八、天禄二年・九七一)後者には数度(「玉鬘」「椎本」「宿木」「東屋」「浮舟」「手習」「夢浮橋」)。「玉鬘」以外はすべて宇治十帖であることは注目を要するが、それらはすべて断片的記述であるので今は省く。
道綱母の初瀬詣では、いずれも懊脳と傷心を抱いての逃避行であった。最初の出発は九月であった。
あか月よりいでたちて、午(むま)どき(正午)ばかりに、宇治の院にいたりつく。みやれば、木のまより、水のおもてつややかにて、いとあはれなる心ちす。
しりのかたをみれば、来困(きこう)じたる(歩きつかれた)下司(げす)ども、あしげなる柚や梨やなどを、なつかしげにもたりてくひ(持ちて食う)などするも、あはれにみゆ。あくれば、川(泉川)わたりていくに(略)よものものがたりの家などおもひいくに、いとぞあはれなる。
それよりたちて、いきもていけば(椿市より初瀬の御堂へ)なでふことなきみちも、山ふかき心ちすれば、いとあはれに、水のこゑもれいにすぎ、霧はましてたちわたり、木の葉はいろいろに見えたり。水は石がちなるなかよりわきかへりゆく。ゆふ日のさしたるさまなどをみるに、なみだもとどまらず。
乞兒(かたゐ)どもの、坏(つき)、鍋などすゑてをるも、いとかなし。
ねぶりもせられず(御堂に籠って)いそがしからねば、つくづくときけば、目もみえぬ者の、いみじげにしもあらぬが、おもひけることどもを、人やきくらんともおもはず、ののしり申すをきくもあはれにて、ただなみだのみぞこぼるる。(「蜻蛉日記」上)
右に見える精細な描写は、あくまで作者個人のわたくしの眼を通して眺められた風景であった。したがって風景はすべて「あはれ」が浸透する。
「源氏物語」では、十八年ぶりに筑紫から上京した玉鬘一行が、寄るべもないままに、仏の加護をもとめて、霊験あらたかな初瀬詣でを思いたつ。玉鬘は都から初瀬への道十八里を、慣れない身の苦しさに「ものも思えで歩みおはす。」そして
「いかなる罪ふかき身にて、かかる世にさすらふらむ、わが親(夕顔)なくなり給ふとも、われをあはれと思ひ給はば、おはすらむ所へさそひ給へ。もし、世におはせば、顔見せ給へ」(玉鬘)
と仏を念ずる。都を発って四日目に生きた心地もなく、やっと椿市の宿にたどり着く。そこで一行は、たまたまかつて亡き夕顔の乳母子であった右近と再会する。ここのところは備後介・右近・三条・乳母らの視点から光が当てられて、十八年におよぶ長い闇に被われた、それぞれの人生の歩みが、いっきょに明るみにひき出される。たとえば右近が最初に三条(玉鬘の下女)に気づいて、
「なほ、さしのぞけ(私の顔をのぞいてみよ)。われをば見知りたりや」とて顔をさし出でたり。この女(三条)うち見つけて、手を打ちて、「あがおもとにこそおはしけれ。あな嬉しとも、うれし。いづこよりまゐり給ふぞ。うへは(夕顔)おはしますか」と、いとおどろおどろしう、先づ泣く。わかきものにて見馴れし世を(かつて若い者として見馴れた昔を右近は)思ひいづるに、へだてきにける年月かぞへられて、いとこよなくあはれなり。(同前)
それから初瀬の御堂に籠るところも、それぞれの人物の眼を通すことによって、その場の情景がいきいきと表現される。ここの「あはれ」は、はじめの玉鬘の言うそれは、母が自分をそう思うのであり、後のは右近が玉鬘と別れて生きてきた年月を振りかえってみて思う「あはれ」である。それはいずれも個人的なわたくしを超えた、複数の眼によって捉えられた、客観的・普遍的な「あはれ」である。しかるにさきの「蜻蛉日記」の「あはれ」は、あくまでも作者個人のわたくしの眼だけによって捉えられた、主観的・特殊的なそれである。したがって見るもの、聞くものすべて「あはれ」によって塗りつぶされてしまう。両者の関係は、たとえば交響曲(シンフォニー)と独奏曲(ソロ)のようなものであるかもしれない。さらにまた両者の関係は次の場合にも見られるだろう。
猶ものはかなきをおもへば、あるかなきかの心ちする、かげろふの日記(にき)というべし。(「蜻蛉日記」上)
「かげろふ」は作者個人のわたくしのはかなさを象徴する。しかるに、
怪しう、つらかりける契りども(大君の死、中君の匂宮との結婚、浮船の入水)を、つくづくと思ひつづけ、ながめ給ふ夕暮、蜻蛉(かげろう)の、ものはかなげに飛びちがうを、(薫はごらんになって)
「ありと見て手には取られず見ればまたゆくへも知らず消えし蜻蛉あるかなきかの」
と、例の、ひとりごち給ふとかや。(蜻蛉)
この「蜻蛉」は作者個人のわたくしを超えて、人生一般の虚妄を象徴する。ここのところを読むと私はなぜかダンテ「神曲」「地獄篇」の詩篇を思い出す。
われをくぐりて汝らは入る
なげきの町に
われをくぐりて汝らは入る
永劫の苦患に
われをくぐりて汝らは入る
ほろびの民に
一切の望みは捨てよ
汝らわれをくぐる者 (寿岳文章訳)