鴎外「追儺」と「幻」


「追儺(ついな)」は「僕」が二月三日の節分の夜、招待されて築地の新喜楽へ行き、ひろい座敷にひとりすわっているところに「小さい萎(しな)びたお婆さん」が入ってきて豆まきをする。それを見て「僕」は思う。

Nietzsche に芸術の夕映といふ文がある。
人が老年になってから、若かった時の事を思って、記念日の祝いをするやうに、芸術の最も深く感ぜられるのは、死の魔力がそれを籠絡してしまった時にある。南伊太利には一年に一度希臘の祭をする民がある。我等の内にある最も善なるものは、古い時代の感覚の遺伝であるかも知れぬ。日は既に没した。我等の生活の天は、最早見えなくなった日の余光に照らされてゐるといふのだ。芸術ばかりではない。宗教も道徳も何もかも同じ事である。

「追儺」はこれだけの話である。

「幻」の巻は栄華を極めた源氏五十二年の生涯の最後の一年の夕映えである。最愛の妻紫上を喪って今や老残の人である彼は「日は既に没し、生活の天は最早見えなくなった日の余光に照らされてゐる」なかにただひとりたたずんでいる。彼の胸中に去来するものは亡き紫上の追憶の悲しさばかりである。季節はうつり変わるが、悲しさのあらたまる時はない。「幻」は次の文で始まる。

春の光を見給ふにつけても、いとど昏(く)れ惑(まど)ひたるやうにのみ、御心ひとつは、悲しさのあらたまるべくもあらぬに、外には例のやうに人々参り給ひなどすれど、御心地なやましきさまにもてなし給ひて、御簾(みす)の内にのみおはします。

春の紅梅、夏の蜩(ひぐらし)、秋の菊、冬の五節、歳暮の追儺。何を見ても聞いてもただ「面影に恋しう、悲しさのみまされば、いかにしてなぐさむべき心ぞ」と思われるなかに、ただひとつ「胸よりも余る」悔いがあった。それは女三宮の降嫁が、紫上に与えた苦悩の深さである。

入道の宮(女三宮)の渡り始め給へりし程、その折はしも、色にはさらに出し給はざりしかど、事にふれつつ、あぢきなのわざやと、思ひ給へりし気色のあはれなりし中にも、雪ふりたりし暁に立ちやすらひて、わが身も冷え入るやうに覚えて、空の気色烈しかりしに、いとなつかしうおいらかなるものから(紫上は源氏に対してごく人懐こくおっとりしてゐながら、)袖のいたう泣きぬらし給へりけるをひき隠し、せめて紛はし給へりし程の用意などを、夜もすがら、夢にても、またはいかならむ世にか(またはいつになったら見られようか)と思し続けらる。

年も終りに近づくと出家のことを思いつづけ、人々に形見分けをして、身辺の整理をする。そのとき彼が最後まで手許に残しておいたのは、須磨流謫中紫上から寄せられた文であった。文は源氏自らの手によって結い合わされている。

この世ながら遠からぬ(同じこの世で須磨と都と遠くもない)御別れの程を、いみじと思しけるままに(紫上が)書い給へる言の葉、げにその折よりもせきあへぬ悲しさ、やらむ方なし。いとうたて、今ひときはの御心惑も、女々しく人わるくなりぬべければ、よくも見給はで、こまやかに(紫上が)書き給へる傍に、(源氏は)かきつめて見るもかひなしもしほ草おなじ雲居の煙とをなれ(古い手紙を集めてみてもかひがない、いっそ紫上と同じ空の煙となってしまへ)と書きつけて、皆焼かせ給ひつ。

これは源氏が自らを弔する歌である。池田龜鑑先生はここのところについて「この段古来絶賛され、無名草子、建礼門院右京大夫家集等に引用さる」(「日本古典全書」〔附記〕)と記されている。今無名草子について見ると

幻に女房の声にて「いみじく積りたる雪かな」といふを聞き給ふにも、かの心苦しかりし雪の夜の事、ただ今の心地して、口惜しく悲しきにも、うき世には雪消えなむと思へども思ひのほかにわれぞほどふる(こんな辛い世からは早く立ち去ってしまいたいと思いながら、心外にもまだ生きていることよ)とよみ給ふところ(略)又御文をも破り給ひて、かきつめて見るもかひなし藻汐草同じ雲ゐの煙ともなれとある所も、すべてまぼろしはさながら哀れに侍り。

右京大夫集には、亡き資盛の筆の跡を見て

(前略)めもくれ心もきえつゝ、いはんかたなし。そのをり、とありし、かゝりし、我いひしことのあひしらひ(応答)なにかとみゆるが、かきかへすやうにおぼゆれば(胸をかきむしるように思われるので)ひとつものこさず、みなさやうにしたゝむるに(処分する)みるもかひなしとかや(前記源氏の歌、かきつめて見るもかひなし)源氏の物語にある事、思ひいでらるゝも、なにの心ありてと(どういうつもりで生きながらえているのかと)つれなくおぼゆ。
かなしさのいとヾもよほす水ぐきのあとは中中消えねとぞ思ふ(悲しみをいよいよさそう昔の、筆の跡など消えてしまってくれればと思う)
かばかりの思ひにたへてつれもなく猶ながらふる玉の緒もうし(これほどの悲嘆に堪えて無情にも依然として生きながらえている私の命も情なく思われる)

無名草子の著者は、はっきりしないが藤原俊成女説が有力であり、成立は正治二年(1200)頃とされる。右京大夫集の成立は貞永元年(1232)頃らしい。「源氏物語」が完結したと推定される寛弘七年(1010)からの200年間は、時代も人間も大きく変わった。しかし「死の魔力がそれを籠絡してしまった時」の芸術はすこしも変わらない。