小林秀雄と紫式部
小林秀雄の「本居宣長」(一九七七)は、著者自身が宣長の墓を尋ね、その遺言書について述べるところから始まる。
戦後、ほとんど訪れる人もないのであらうか。苔むした石段が盡き、妙楽寺は、無住と言ったやうな姿で、山の中に鎮まりかへってゐた。そこから、山徑を、數町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山櫻が植ゑられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立ってゐる。簡明、清潔で、美しい。この獨創的な墓の設計は、遺言書に、圖解により、細かに指定されてゐる。「本居宣長之奥墓」は自筆で、草稿は、鈴屋遺蹟で見られるが、遺言書の墓碑の圖解には、「本居宣長之奥津紀」と書かれ、下に、「石碑の裏并脇へは、何事も書申間敷候」とある。(略)葬式は、諸事「麁末に」「麁相に」とくり返し言ってゐるが、大好きな櫻の木は、さうはいかなかった。これだけは一流の品を注文してゐるのが面白い。(略)以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現してゐる事が、わかるだらうが、これは、たゞ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結實であり、敢えて最後の述作と言ひたい趣のものと考へる(略)。(一)
このあと遺言書の詳しい説明がつづく。ここを読みながら私はふと小林秀雄の「本居宣長」は、ほかならぬ著者自身の遺言書ではなかったか、という感じがしてきた。そしてこの感じは読みすすんでゆくにつれて次第に深くなっていった。なお墓の遺言は鴎外を想わせる。著者は言う。宣長は「源氏」の味読によって開眼したと。
彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたといふ、その事だったと言ってよささうだ。その感動のうちに、彼の終生變らぬ人間觀が定着した−「おほかた人のまことの情といふ物は、女童のごとく、みれんに、おろかなる物也(略)。(紫文要領、巻下)(十三)。
さらに人の心について著者は言う。
よろづの事にふれて、おのづから心が感(ウゴ)くといふ、習ひ覺えた知識や分別には齒が立たぬ、基本的な人間経驗があるといふ事が、先づ宣長には固く信じられてゐる。心といふものゝ有りやうは(略)そのまゝ分裂を知らず、觀點を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、たゞこの無私で自足した基本的な經驗を、損なはず保持して行く事が難しいといふところにある。難しいが出来る事だ。これを高次な經驗に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えてゐた、「物のあはれを知る」といふ「道」なのである。彼が、式部といふ妙手に見たのは「物のあはれ」といふ王朝情趣の描寫家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。(十四)
宣長が、思ひ切ってやってのけた事は、作者の「心中」に飛込み、作者の「心ばへ」を一たん内から掴んだら離さぬといふ、まことに端的な事だった。宣長は、「源氏」を精しく讀まうとする自分の努力を、「源氏」を作り出さうとする作者の努力に重ね合はせて、作者と同じ向きに歩いた。(十六)
「本居宣長」最後の章は、ほとんど人間の生と死について語られる。
繰返して言はう。本當に、死が到來すれば、萬事は休する。從って、われわれに持てるのは、死の豫感だけだと言へよう。しかし、これは、どうあっても到來するのである。(略)(五十)
宣長の考へによれば、「禽獣よりもことわざしげく」、「物のあはれをしる」人間は、遠い昔から、たゞ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を觀ずる道に踏み込んでゐた。この本質的な反省の事(ワザ)は、言はば、人の一生といふ限定された枠の内部で、各人が完了する他はないものであった。しかし、其處に要求されてゐるやうな根底的な直觀の働きは、誰もが持って生まれて來た、「まごころ」に備はる、知慧の働きであったと見ていゝ。そして、死を目指し、死に至って止むまで歩きつゞける、休むことのない生の足どりが、「可畏(カシコ)き物」として、一と目で見渡せる、さういふ展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存してゐる様が觀じられて來なければ、完了しないのであった。(同前)
引用文中、傍点(ゴッシク表示)を付した「一と目で見渡せる展望」は「幻」の巻で完了した。ここで源氏は紫上の死によって、一年の四季のうつろいの間に、彼の生きてきた全生涯を根本的に、純粋に経験した。すべては終わったのである。
もの思ふと過ぐる月日もしらぬまに年もわが世もけふやつきぬる(幻)
源氏最後の歌である。生を死の観点から逆照射する小林の方法は、すでに「無常といふ事」(1942)「モオツァルト」(1946)に見える所から、あるいは彼の原資質に因るものかもしれない。この点は言葉が足りないが、宣長にも式部にも、さらにまた鴎外にも通底するものがあったように思われる。ついでに言えば、小林の「本居宣長」は、あるいはひそかに鴎外の「澀江抽齋」(1916)に傚ったものかもしれない。第一、両者とも医者・学者・詩人・自由人であること。第二、文体が主体的・経験的であること。第三、書出しが一は遺言書、一は述志の詩であること。第四、対象への親愛と敬慕であること。