「舞踏会の手帖」と「源氏物語」 1


1937年のフランス映画と1010年の日本の王朝物語とをここに並べるのは、どうみても唐突の感をまぬがれない。じつは先頃作家・詩人である清岡卓行氏がこの映画について書かれた一文(1991.1.6付朝日新聞家庭欄)を読んで、ふと映画の女主人公クリスチーヌが光源氏と重なり会ったのである。どこに共通点があるのか。一口に言えば、つかのまに消え去った青春の光芒と、その後につづく長く暗い人生の現実との対比である。
映画はまだ若い未亡人のクリスチーヌが、自分の青春の失われた愛の可能性を求めて、二十年ほど昔少女時代、舞踏会で自分に愛をささやいた男たちを訪ねて遍歴の旅に出るところから始まる。そこで彼女が見たのは独り子の内気だった青年は彼女の婚約を知って自殺し、弁護士志望だった純情な青年は不逞の男に変身し、音楽家志望だった青年は修道院の神父になり、ダンディな詩人だった青年はアルプスの山案内人になり、政治家志望だった青年は陽気な町長となり、まじめな医学生であった青年は今はマルセーユの裏町で隻眼の堕胎医になっている。クリスチーヌは自分が育った小さな都市の昔のままという広間の舞踏会にゆくが、思い出の大きな窓も、モスリンのカーテンも、シャンデリアも何もない。ただ演奏を依頼した「灰色のワルツ」だけは同じであったけれどー。モリス・ジョベールのこのワルツの「甘く、緩やかで、寂しく、いくぶん暗い情緒」(清岡)は映画全体の基調をなしている。そしてワルツはクリスチーヌが十六歳のとき、さいしょの舞踏会で耳にしながら踊った音楽である。現実に幻滅したクリスチーヌはコモ湖畔の自宅に戻り、昔の舞踏会で積極的に好意をおぼえはじめたただ一人の青年が対岸にすんでいたことを知る。しかしその家を訪ねてみると、彼はすでに死んでおり、若いころの彼にそっくりの息子がいた。彼女はその少年を舞踏会に連れてゆく。
映画はここで終わる。清岡氏は「見終わったあとに深く残る透明な無常感」を言っている。私はこの文を読みながら昔見た映画のシーンを鮮明に想いだしていた。とくに落魄した医者が、隻眼をきらきらさせてクリスチーヌを見つめるシーンは強烈に印象に残っている。


一、藤壺


まだ十代の若い源氏が一途に愛した女性が、少なくとも四人はいる。藤壺・空蝉・夕顔・六条御息所である。しかしながら彼女たちとの愛はあまりにはかなく、つかのまに消え去り、後には長く暗い苦渋の影がつきまとう。生まれてはじめて源氏が身を焼くようなはげしい愛に捉えられた藤壺は、しかしながら決して愛してはならない相手であった。世間の目を忍んでまれに逢う逢瀬は次のように書かれる。

かかる折だに、と、(源氏は)心もあくがれ惑ひて、いづくにもいづくにも参うで給はず。内裏(うち)にても里にても、昼はつれづれとながめ暮して、暮るれば、王命婦(藤壺の侍女)を責めありき給ふ。(命婦は)いかがたばかりけむ、いと理(わり)なくて見奉るほどさへ(無理をして藤壺と逢われる間も)うつつとはおぼえぬぞわびしきや。宮もあさましかりしを思し出づるだに(藤壺も意外だった以前の逢瀬を思い出されるだけでも)世とともの御物思ひなるを、さてだにやみなむ(せめてあれだけで終わりにしよう)と深う思したるに、いと心憂くて(また逢ってしまったのがつらくて)(略)くらぶの山に宿も取らまほしげなれど(源氏は夜が明けない山に宿もとりたいが)あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり。
(源氏)見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるるわが身ともがな(今お逢いしても、又お目にかかれる夜はむずかしいので、いっそこの夢のうちに消えてしまいたい)とむせかへり給ふさまも、さすがにいみじければ、
(藤壺)世がたりに人やつたへむたぐひなくうき身を醒めぬ夢になしても(類なく辛いわが身は、たとえ永久に醒めぬ夢と消えてしまっても、長く世間の語り種にされることでしょう)思しみだれたるさまも、いとことわりにかたじけなし。(略)殿におはして、(源氏は)泣寝に臥しくらし給ひつ。(若紫)

右の贈答の歌に見るかぎり、源氏の方が殉情一途であり、藤壺は理性的で世間のことを気にしている。じじつ不義の子春宮を危機から守るためには、源氏の一途な求愛を断ちきるほかなく、ついに出家を決意する。

わが身をなきになしても春宮の御代をたひらかにおはしまさばとのみ思しつつ、御行ひたゆみなく勤めさせ給ふ。人知れず危くゆゆしう思ひ聞えさせ給ふ事(春宮出生の秘密)しあれば、われにその罪を軽めてゆるし給へ(自分に免じてその罪を軽くして下さい)と、佛を念じ聞え給ふに、よろづを慰め給ふ。(賢木)

藤壺の晩年は准太上天皇の位につき、外面的には並ぶものもない栄光の座にあった。しかし臨終に次のような述懐が見られる。

御心の中に思し続くるに、高き宿世、世のさかえも並ぶ人なく、心の中に飽かず思ふことも人にまさりける身と思し知らる。上の、夢の中にも、かかる事の心(帝が夢にも、こういう事情―実の父君は源氏だということ)を知らせ給はぬを、さすがに心苦しう見奉り給ひて、これのみぞ、うしろめたくむすぼほれたる事に、思し置かるべき心地し給ひける。(薄雲)

してみれば藤壺の人生は、外面とは裏腹に愛と罪とのはざまに引き裂かれた不幸な女の一生であったのかもしれない。現に後に源氏の夢にあらわれて、

漏さじ(秘密は)と宣ひしかど、うき名のかくれなかりければ、はづかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ。(朝顔)と恨んでいる。   (つづく)