「舞踏会の手帖」と「源氏物語」 4


四、六条御息所


「舞踏会の手帖」でクリスチーヌが、二十年前少女時代舞踏会で逢った一人のまじめな医学生ティエリをマルセーユの裏町に訪ねるところがある。彼は今うらぶれた隻眼の堕胎医となっている。片眼をきらきら輝かせながら身を乗りだすようにして、クリスチーヌに見入るシーンは鬼気迫るものがある。彼女が立ち去ると、彼は自分を陰気に独占しようとする長い連れ合いの内妻を射殺する。彼には発作の持病があった。少女時代のクリスチーヌに愛をささやいた純情な青年たちは今はみな不幸な大人になっているが、なかでもティエリは一番不幸である。
このシーンを見ていて、私はふと物の怪になった六条御息所を思いだしていた。若き源氏をめぐる女性たちはそれぞれに不幸であったが、なかでも御息所の不幸はまぎらしようのない敗北感にみちた、みじめなものであった。多くの不幸な女性たちのなかで、なぜ彼女だけが醜悪な物の怪の烙印を捺されねばならなかったか。思うにその理由は作者の彼女への思い入れの深さにあるというほかないだろう。
彼女は大臣の娘で、十六歳で前東宮妃となり、翌年姫君誕生、二十歳で夫と死別する。(賢木)彼女はもともと心にくく由ある人と昔から評判が高かったので、六条京極邸はよき女房など多くいて、風流を好む殿上人の集う格好のサロンであり、彼女はいわばサロンの女王であった。(葵・澪標)いつごろから源氏がそこへ通うようになったかはっきりしないが、かなり早くからであったらしい。本居宣長の「手枕」は十三歳秋から十六歳に至る間としている。はじめ容易に靡かなかった誇り高い彼女を、熱心な求愛によってついに靡かせた後、うって変わって冷淡になったのはどうしたことか。
源氏の御息所への愛が急速に冷えていった理由は、結局、御息所の極端に内向的性格と源氏の極端に外向的性格との対立ということであろう。(しかし精神の深部では二人は愛し合っていた)

女は、いと物をあまりなるまで思ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく(源氏十七歳・御息所二十四歳)人の漏り聞かむに、いとどかくつらき御夜がれ寝ざめ寝ざめ、思ししをるる事いと様々なり。(夕顔)

夕顔の死を現代の注釈の多くは「河原院霊怪談」を準拠として「なにがしの院」の妖怪とみるが、虚心に本文を読むかぎり、私は旧注(「細流抄」・「湖月抄」・「弄花抄」等)の説くように御息所の霊とするのが物語の自然というものであろう、と思う。源氏は夕顔と寝る直前御息所を思い出す。

六条わたりにも、いかに思ひ乱れ給ふらむ、うらみられむに、苦しう道理(ことわり)なり、といとほしき筋は、先づ(御息所を)思ひ聞え給う。(しかし)何心もなきさしむかひ(目前の夕顔)を、あはれと思すままに、(御息所が)あまりに心深く、見る人も苦しき御有様を、すこし取り棄てばや、と(夕顔と)思ひくらべられ給ひけり。(同前)

この源氏のなにげない比較が、御息所のあまりに内向的・神経質な心を傷つけ、全く知らない間に彼女の霊をおびきよせて物の怪にするのである。本来御息所は源氏に対して完璧な愛を求めた。いささかも完璧をそこなう者を許すことはできなかった。愛について彼女はそれほど一徹であった。それが幽体離脱の現象を生み、物の怪をひき出すのである。この図式は葵の上の急死によって一層あきらかになる。新斎院御禊(みそぎ)の日御息所は葵の上によって不当に恥ずかしめられる。その後葵の上の病は重くなるが、世間では、それを御息所の生霊のせいとするものがある。彼女はその噂を聞いて思う。

思し続くれば、身一つの憂き歎きよりほかに、人をあしかれなど思ふ心もなけれど、物思ふにあくがるなる魂(物思いをすれば身を抜け出すという魂)さもやあらむと思し知らるる事もあり。年頃よろづに思ひ残す事なく過しつれど、からくも砕けぬを(悩みという悩みはしつくしてきたが、これほどまで心を砕いた事もないのを)はかき事の折に、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御禊の後(源氏の姿をひと目見たさに出かけた折に、葵の上が自分を無視した態度に出た)ひとふしに思しうかれにし心、しづまり難う思さるるけにや、すこしうちまどろみ給ふ夢には「かの姫君(葵の上)と思しき人の、いと清らにてある所に往きて、とかく引きまさぐり(引っかきまわし)現(うつつ)にも似ず、たけくいかき(猛々しく激しい)ひたぶる心出できて、うちかなぐる(打ちのめす)」など見給ふ事、度重なりにけり。(葵)

このことがあってから彼女は薄情な源氏を一切思い切ろうと思うが、思う通りにはゆかない。彼女の心は、その意思に反して愛と断念の間にゆれ動く。ついに断念して斎宮となった娘とともに伊勢に下る。六年後都に帰るとまもなく病床につき、三十六歳の不幸な生涯を閉じる。しかし彼女の不幸はなお終わらず、死後十八年紫の上に憑き、源氏に怨みを言う。

ほろほろといたく泣きて
わが身こそあらぬさまなれそれながらそらおぼれする君はきみなり
いとつらし、つらしと泣き叫ぶ(若菜下)

さらに一年後女三の宮に憑き

今は帰りなむとてうち笑ふ。(柏木)

この最後の言葉で作者は何が言いたかったのか。御息所には死後も帰るべき所はどこにもなく、ただ空しい笑い声だけが虚空にひびいているように、私には思えるのである。