私の文集よりその一いま大学入試に、センター試験がある。改正前の共通一次試験が初め て導入された1979年、地方紙(秋田さきがけ 1/9日付)文化欄に載った拙文です「公害試験の確率」 −−−大学受験の子を持つ親から−−− 食品製造業ではある種の施設を有する場合、ある種の公害防止管理 者をおくことが法律によって義務づけられている。私の場合は規模が小 さいので適用されていない。しかし、規模の大小を問わず、公害の防止 技術を知っておくことは大切であると思う。 昨年十月、私は年に一回の公害防止管理者試験「水質一種」を仙台 で受けてみた。水質一種だけでも、全国で二万人から三万人ほどの受 験者がいる。それで採点の公正とスピード化のためコンピューターによ るいわゆるマークシート方式でテストが行われる。五者択一の、すなわ ち解答群五つの中から一つだけ正解と思うものを選ぶ方式である。全 部で七十五問出題されていた。合格か不合格かはこの三月の発表ま で分からない。 冬の夜ながのある晩に、ふと気になって考えた。このような多枝選択 式テストの場合の偶然性はどうだろうか。でたらめに答えを記した場合 の確率はどうだろうか。いま私は数学には縁が遠く、この程度の計算も 忘れかけていた。しかし、どうにか考えついて、計算の式を導くことがで きた。それで電卓でやってみた。公害防止管理者試験では六割以上の 点数で合格といわれている。 それでは五者択一式で七十五問全部をでたらめに記した場合に、四 十五問以上合う確率はどうだろう。なんと百兆分の四なのである。この 数字は、かりに地球上の全ての人間がこの試験に臨んでも一万年に一 つか二つしか起こり得ない確率である。 全く無に近いものと思われる。サルが一生ピアノの鍵盤をたたき続け て、いつか一度でもベートーベンの名曲を鳴らすだろうか、果たしてその ようなことが起こり得るだろうかとのたとえに同じである。 しかし、事情はこれと違う。全問題でたらめ解答をするということは、問 題外の話なのである。 では半分ほどの問題が解けて、残り半分を天にまかせた場合どうだろ う。三十八問だけは確実にできた。残り三十七問を全く考えずにしるしだ けした。この場合、合格、不合格の確率はどうだろう。四十五問以上正 解の確率は百分の六十三である。不合格は百分の三十七となる。人数 が多いほど、百人につき六十三人の合格者と三十七人の不合格者の割 合がよく表れる。テストする者の意に反して同じ能力の者が合格、不合 格に分けられてしまう。まさに天のしわざであろう。 さて、私にはいま国立大学を受験する子供がいる。いよいよ今年が初 めての共通一次試験が行われようとしている。マークシート方式多枝選 択式ということである。ところで私が計算した確率のこと、偶然性につい て、子供に話した。自分がいままで見た数学の問題集にはない確率計算 である。しばらくしてようやく納得した。受験日が近づいてまだまだ勉強の 足りないと思っている子供に、「あとは運を天にまかせなさい」と言ってや った。月並みな言葉で「ふだんの行いの良い者に天は助けをくれるだろ うよ」と。 1979,1,9 K.Shindo ......... さきがけ新聞 この確率計算プログラム |
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私の文集よりその二 私が一時期勤めた定時制の分校だが、その後自動車課を設置し、全 日制へと発展、これが母胎となって「県立男鹿工業高等学校」が開校、 分校は閉校になりました。1980年閉校の記念誌に寄せた拙文です 「その名を永遠に」 私自身、当時の生徒と一緒の、この学校の卒業生のように思っている。 船越分校専任の教師として、私が二十歳の昭和二十五年から、二十九 年までの四年間である。 それは実に良き師、良き同僚、良き生徒との出会いであった。「教育 の機会均等」の原則から勤労青年を対象に、高校教育を行う定時制課 程船越分校が出来て間もない、文字通り働きながら学ぶ生徒ばかりで あった。 それにはその頃の経済事情があった。しかし、その後の日本は高度 成長から経済大国と云われるまでになった。そして社会は複雑化し、 あらゆる面での情報量が多くなり、したがって価値観も多様化している。 増大する情報量それは物理学的量のエントロピーに同じく自然の法則 に従っているかも知れない。 この船越分校も社会の変化に対応し、よく発展してきた。そしていま、 同じ地域に県立工業高校の新設を導いて自ら門を閉じるという。 更に社会が進展し変容してゆくであろう将来も私は、千人余の同窓生 と同じくこの母なる船越分校を思う。 秋田県立金足農業高等学校船越分校よ、そしてその名を永遠に。 1980,8,31 K.Shindo |
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私の文集よりその三 秋田県立秋田中学校昭和21・22年卒業 同期会記念誌『戦中戦後』に寄せて 『中学時代あの頃と今』 「タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビ」の玉音放送を聞いたのは、 私たち同期の殆どが勤労動員に出ていた国鉄土崎工機部の職場におい てであった。私はその工場の小さな職場である自動車整備の作業場に いた。はっきりした記憶はないが、その日そこに用意された国民ラジオに 耳を集めたのは十人位であったと思う。不思議にもその時、四・五人はい たと思う同級生の顔が今は全く思い出せない。放送を聞いていて私には 何のことか分からないでいたのだが、ただ一人、嗚咽し、涙を落としてい る、転校してきたばかりの同級生のいたことだけが鮮明に記憶されてい る。ところが終戦になり動員が解除され教室に入るようになってからの、 その後の彼を私は見ることがなかった。 あの日の午後であったと思う、動員学生全部が一カ所に集められ、先 生たちの話があった。「日本は戦争に負けたのだ」と秋田市立中学校校 長のハッキリした語調は印象的であった。玉音の意味も聞き取れない私 には、それでもなお敗戦を信じ得ない気持ちでいたのであった。それまで 私たちは東洋平和のための聖戦であり、日本は神の国、負けることは無 いのだと信じさせられていた。何時かはカミカゼのあることを信じ、不自由 に耐え、清く正しく生きることであった。 太平洋戦争勃発と共に中学へ入り、終戦と共に中学四年を終えた。今 あの戦争は甚だ忌まわしいものに思える。言うまでもなく誰望むもののな い、二度と繰り返してならないものである。しかし、十二才から十六才ま での、私たち少年の心を育んでくれたのはあの時代である。敗戦と共に 価値観は変わったのだが培われた精神は簡単に失われるものではない と思う。いま否定出来ない純粋なものがあったと思う。戦後の飢餓から今 日の経済繁栄を築いて来たのは私たちの世代と先輩のやはり戦前教育 を受けた人たちによってではなかったか。 戦後の新しい思想は目を見はらせた。あのころ民主主義という言葉は 合い言葉のように使われ、封建的という言葉は悪いことの代名詞であっ た。そして大正デモクラシーを語る人たちの話しは本当に輝いていた。 丁度少年期から青年期へ移る精神年齢であった私たちにとって物質的 な不自由はあったが精神的満たされるものの多い時代ではなかったかと 思うのである。 さて、今の時代はどうだろう。価値観は多様である。識者の話にはそれ なりに頷かれる。しかし情報量は多く質の良い情報を選ぶことがなかな か難しくなっていくように思われる。 物理学にエントロピーという一つの量のあることを知っている人は多い と思う。私にはその概念がなかなか難しくつかみにくいのだが、それはエ ネルギーの状態を示す量の一つであって、乱雑で無秩序な状態ほど大 きい、質の悪いエネルギーと考えれば分かるような気がする。エネルギ ー不滅の法則は中学で習った。エネルギーは減ったり増えたりはしない、 それが無くなったように見えても別のエネルギーに形が変っただけと云う ことを。 しかしエントロピーは無くなるどころか必ず増えるものと熱力学 第二法則は云う。そして増え続けるエントロピーが極大になれば宇宙の 終焉であると言う。 エントロピーは確率統計の式にて表され情報量もまた同式にて表され る。宇宙規模のことは別として、十年ほど前に、ある新書本で読んだこと である、いまの情報量の増え方から、さる統計力学の権威が人類の寿命 はあと二・三百年だろうと言っていたと云う。人類がもしこれをコントロー ル出来ないならば未来は想像し得ない混乱の世になるかもしれないと言 う。いまの社会にそんな兆しがありはしないだろうかと。この情報量とは 何だろう。 物質文明の発達は驚くばかりである。それは人類を便利な生活に変え るものではあるが、心の豊かさまでも約束してくれるものではないような 気がする。そして発達の裏にはエントロピー増大の伴うということがあま り知られていないような気がする。増大の抑制は可能であろう、しかし過 去に遡ってそれを戻すことは出来得ない。エントロピー増大は不可逆の 自然法則なのである。 私たち中学のあの頃のことは、遠くになってしまったようにも思われ、 ついこの間のことのようにも思われる。先日私は、ある友人から一冊の 本を借りる機会を得た。それは小野進著『名勝・男鹿』(昭和七年発行) である。一読し、先生のユニークな人柄が彷彿とした。先生は大館中学 から秋田中学へ来られたのであった。私たちには三年生の時に生物を 教えていた。先生は八幡平へもしばしば自然探求に行かれたのであろ う。よくその話しもされていたのを記憶している。先生は戦前の当時とし ては誰も気付きはしなかった自然保護を訴えていたのである。いま先生 の人生と自然との関わり合いが偲ばれて懐かしく思われる。 男鹿も大きく変わっている。当時の男鹿は、その著書にもあるが『創造 されたままの大自然』であった。北の米代川・南の雄物川が砂を運び、砂 州が形成されて島を陸に繋いだのだ。そして島は半島となり、本州との 間の海峡は八郎潟となる。それはまさに天与のものである。終戦の年の 夏、同級生五人でテントを担ぎ道なき道を三日も歩いて一周した男鹿は いま車で二時間である。八郎潟も干拓されて昔の面影はない。干拓は、 戦争で特に深く傷ついたオランダとの国民感情を和らげるために、あえて オランダに依頼して行われたものではある。しかし多く文人墨客の遊んだ 八郎潟の昔を今に返すことの出来ないのが私に惜しく思われてならない。 最後に『名勝・男鹿』の序の、当時の秋田さきがけ新報社々長・安藤和 風氏の記している一文を引用して拙い筆を擱きたいと思う。 『・・・今や大館中学教諭にして郷土研究に熱心に、蘊蓄深き小野進氏 は新たに名勝男鹿を著し、世に問はんとす、其の内容は科学に問ひ、趣 味に訪ね、新様式に依り自然より人事に至るまで至れり尽くせりと云うべく、 これ単に古書の渉猟に止まらず、実地探求の結果に外ならない・・・』 1984,3,25 K.Shindo
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私の文集よりその四地方銀行ミニコミ紙の「私の趣味」欄に寄せる 初めてワープロ富士通OASYSUを手にした時 「初めてのワープロ」 四十八の仮名文字を重複させずに使った「いろは歌」は、仏教思想の 無常観を見事にうたっている。空海の作とも言われている。私達の祖先 は仮名を発明してくれた。そして仮名と漢字の併用が、デリケートな日本 文化の創造にすぐれた力を発揮してくれた。しかし日本語は複雑なよう でもある。 この間私は、いま話題のワードプロセッサー(文書作成機)を、ある筋か ら甚だ安い価格で手にいれることが出来た。この機械の中に、いったい どんな仕掛けがあるのだろう。仮名がポンポン漢字に変わってくれるし、 その漢字には、正しい「送りがな」もつけてくれる。いま、私はこの機械の とりこになってしまった。 1984,5,16 K.Shindo
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私の文集よりその五 私の小学三年二学期から六年二学期まで三年間、学級担任をなされた 西村正氏は不応性貧血症のため、1988,9,22日、六十九才で没した。 恩師の死を悼みて 『 恩師に捧ぐ 』 今からまさしく五十年前、昭和十三年八月でした。先生は秋田師範学 校を卒業し、海軍短期現役兵の義務を終えて、船越小学校へ赴任されま した。立派な体格の新進気鋭の青年教師として私たちの教壇に立たれま した。私たちは先生の初めての教え子となったのです。この出会いが私 自身を形成する上でかけがえのない貴重なご縁であったことを痛感いた します。 先生の授業は素晴らしいものでした。とくに自然観察は優れて、生徒を よく山へ川へ、海へ連れて行き実習教育を行ったものです。スポーツも 万能で、水泳もスキーもよくご指導下さいました。先生は旧制秋田中学時 代、野球のサードの選手として甲子園に出場されております。そのとき秋 田中学は準決勝に進出していたのです。このような先生は私たちの誇り でもありました。 先生は情熱を傾け生徒一人一人をよくご指導下さいました。私たちは 休みの日も、夜といわず昼と云わず先生のおられるところへ尋ねて行っ たものです。あの頃の先生は私たちのために実に二十四時間勤務であ ったかと思います。 私たちが卒業してから先生は召集されて三重海軍航空隊勤務となりま した。教え子達からの慰問の手紙には、必ずご丁寧な返事を下さいまし た。そしてご自身の日記にその手紙の人の名を記していたのです。それ は後年先生が、戦死された弟様の記録と一緒に著された「海軍の日記」 に残しております。「海軍の日記」は、私の最も大切な蔵書の一つとして 保存しています。 戦後先生は教育界に復職されました。教育を天職とされた先生は、戦 後も私たち教え子に注いだあの情熱と信念を持ち続けられたことと思い ます。戦後の教育に憂慮されて、問題点などを子を持つ私たちにいろい ろお話し下さったこともあります。 先生は各学校の校長を歴任し退職後は教育委員、そして教育委員長 を務められました。学術の面では貝の新種「ニシムラギセル」その他数々 の新種を発見し学術書にも論文を載せておられます。このように信念と 情熱と英知をお持ちの偉大な先生に教えられた私は果たして良き教え子 であったかと自問いたしますとき、全く恥じ入る気持ちになるのです。 先生には、先生のご家庭のことでありますが、美しい話しがあります。 ご母堂様が老いて病床に臥してからの幾年か、夕餉の一時には、先生 ご自身がご母堂をお抱きになり一家団らんの居間にお連れになったとい うことです。それがご母堂のお亡くなりになられるまで一日も休まなかっ たというのです。先生の生き様は、価値観の多様に変わる今の世の中、 人生に本当の変わらぬ価値のあることを教えているように思います。 最後に先生がお書きになったエッセイの中から一つの詩を詠ませて頂 き終わりたいと思います。 『 イカリ草 』 学校の裏山を海に向かって登っていけば イカリ草の生えている道に出る 私はこの植物が大好きである 春には、船のイカリのような形の真っ白な花をつけ いびつな楕円形の葉には、こまかい鋸のきざみがあって 鮮やかな緑の美しさ 風のふくままになびきはするが、その細い茎にもかかわらず 強じんにして折れるようなことはない 松林の緑につつましく生えていて 薬草にもなる この美しさ、この清らかさ、そしてつつましい中にも どこかしんの一本とおった、世の中の為になる草 私はこの草が好きだ ..................................... ........................................................... さようなら 1988,9,27 K.Shindo |
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