嘉壽家堂読書日記
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  読書日記2003目次

2003.12.21 鎖(上・下) 乃南 アサ
2003.12.07 新選組(上・下) 森村 誠一
2003.11.17 東電OL症候群(シンドローム) 佐野 眞一
2003.10.12 たそがれ清兵衛 藤沢 周平
2003.10.04 青い山脈 石坂 洋次郎
2003.10.01 慟哭 貫井 徳郎
2003.09.29 適者生存
三流
長谷川 滋利
長嶋 一茂
2003.09.27 外道の女 団 鬼六
2003.09.08 蝉しぐれ 藤沢 周平
2003.09.08 おかしな男 渥美清
東電OL殺人事件
宮崎勤事件
小林 信彦
佐野 眞一
一橋 文哉
2003.08.18 Dr.コトー診療所 山田 貴敏
2003.08.12 陋巷に在り 9 眩の巻 酒見 賢一
2003.08.02 奇術探偵 曾我佳城 泡坂 妻夫
2003.07.26 54歳引退論 布施 克彦
2003.07.26 被差別部落の青春 角岡 伸彦
2003.07.14 捨て童子 松平忠輝 1〜4巻 横山 光輝
2003.07.09 放送禁止歌 森 達也
2003.07.05 オール読物6月号 文藝春秋社
2003.07.03 バンコクに惑う・新バンコク探検
バンコク下町暮らし
下川 裕治
2003.07.02 満里奈の旅ぶくれ −たわわ台湾− 渡辺 満里奈
2003.07.02 「りらく」 「Kappo」 雑誌
2003.06.22 ローマ人の物語
ハンニバル戦記(上・中・下)
 塩野 七生
2003.06.15 ガセネッタ&シモネッタ  米原 万里
2003.06.14 禿鷹の夜  逢坂 剛
2003.06.12 最良の日、最悪の日  小林 信彦
2003.06.11 酒と家庭は読書の敵だ  目黒 考二
2003.05.22 決定版 私説コメディアン史  澤田 隆治
2003.05.21 僕の昭和歌謡史  泉 麻人
2003.05.21 海を越えた挑戦者たち ロバート・ホワイティング
2003.05.07 モンテ・クリスト伯(全7巻) アレクサンドル・デュマ
2003.03.21 ローマ人の物語
ローマは一日にしてならず(上・下)
 塩野 七生
2003.03.21 坊ちゃんの時代 全5巻
凛冽たり近代 なお生彩あり明治人
 関川 夏央
 谷口 ジロー
2003.03.09 巨人軍に葬られた男たち  織田 淳太郎
2003.03.09 高峰秀子の捨てられない荷物  斎藤 明美
2003.03.06 コラムは誘う  小林 信彦
2003.03.06 昭和史七つの謎  保坂 正康
2003.03.04 大盗禅師  司馬 遼太郎
2003.02.02 シェイクスピアを楽しむために  阿刀田 高
2003.01.26 コットンが好き  高峰 秀子
2003.01.26 おんな飛脚人  出久根 達郎
2003.01.16 ソ連が満州に侵攻した夏  半藤 一利
2003.01.05 運命の一球  近藤 唯之
2003.01.05 添乗員騒動記・添乗員奮戦記  岡崎 大五


 鎖(上・下)  乃南アサ   新潮文庫  目次に戻る

 私の好きな音道貴子刑事シリーズです。
 文庫本の帯には次のように書いてある。

(上)
 
 あの音道刑事が 拉致・監禁された!
   傑作「凍える牙」の続編


(下)
  暴行・空腹・薄れゆく意識・・・・・
   刑事 音道貴子 絶体絶命のピンチ!

 私のように音道ファンでなくても、読みたくなるような惹句ではないですか。
 
 推理小説ですので、詳しい説明はできませんが、上巻は三日ぐらいかかって読みましたが、下巻は一晩で読んでしまいました。徐々に手に汗握る展開になってテンポが上がってきて、やめられません。

 音道貴子刑事は、警察の組織のなかで「女」を強烈に意識させられて働いています。
 前作「凍える牙」では相棒の滝沢刑事から冷たくあしらわれて、それでも遂には滝沢刑事と心が通うことになります。
 つまり、事件に或いは犯人に対する前に、自らの組織の中の者と対峙しなければならないのです。

 今回も、その展開です。
 そして、女ということがまたしても障害となって「拉致・監禁」され「暴行・空腹・薄れゆく意識・・・」となってゆくのです。
 事件の謎と共に、男と女、恋愛だけではない男と女のあり方について考えさせられます。

 この物語でも、何故か滝沢刑事が登場し、必死の活躍をします。

 読後「ふーっ」と、息を吐いて「あー面白かった」とつぶやいて眠りました。


 新選組(上・下)  森村誠一   祥伝社文庫  目次に戻る

 新選組に関する本があふれている。
 来年のNHKの大河ドラマが新選組だからなのだそうだ。

 僕は、高校時代に司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んで以来、土方歳三のファンである。
 まだ東京は日野の生家などは訪れていないが、最期の地、函館は見学してきた。

 司馬遼太郎の「燃えよ剣」「新選組血風録」、そして子母沢寛の新選組三部作「新選組始末記」「新選組遺聞」「新選組物語」も読み、他の人たちのもずいぶん読んだ。
 だから、今出ているものはあまり読みたくはなかったのだが、森村誠一が敢えて新選組に挑み、週刊朝日に連載したもの、ということと、ちょっと新選組を復習してみようと思い読むこととしたのだ。

 新選組の面白いところは、全員が同じ目的「佐幕」ではなく、それぞれが各々の考えを持って、参加していたところである。
 だから、それぞれの考えに固執することができたとおもわれる。
 
 それらの者たちの中に、誰か一人共鳴できるものがいるから、新選組は人気がある。

 時代の中では「あれは何だったんだろう?」と思われる存在であるが、なんだかキラキラしてたりするとこもあって、作家として興味がそそられるのだろう。森村誠一も「新選組は人間組」であると言っている。

 で、内容だが、概ね新選組のたどった道を史実から大きく離れることなく、結成前から残った隊士たちのその後まで書いてあり新選組の入門書としてもオーソドックスなものとなっている。

 変にマニアックであったり、一人の隊士に容れこんで歪んだ全体像になることなく、それでいて新しい解釈や想像が入っていて面白く読むことができた。


 東電OL症候群(シンドローム)  佐野眞一   新潮文庫  目次に戻る
 先日の選挙、私は衆議院の小選挙区で誰に入れるのかでも、比例代表でどの党にするかでもなく、最高裁判事の国民審査のほうに関心がありました。
 それは、この東電OL殺人事件の裁判のことがあったからです。

 この本の前「東電OL殺人事件」で、容疑者のネパール人が無罪となったこと、そして検察は控訴したことを知った。
 その後、第2審で、逆転有罪となり、今度は容疑者と弁護側が最高裁に控訴した。
 その結果「疑わしきは罰する」こととなり、最高裁は2審を支持した。これがつい最近のこと。

 ということで、その判断をした最高裁判事を罷免する運動に関心があったのです。
 結局、罷免にはならなかったですが・・・・・

 この本は、殺害された東電OLの「堕ちる」ということに、多くの女性が共感をもったことについて先ず書いている。

 現代の「女性」は、というより「人」は、登ることによって得られる充足感と、それに比例するかのような「堕落」のエクスタシーに等分に憧れているのかもしれない。
 そして、その二つをある意味具現化した東電OLに共感するものがあるんだろう。
 というか、私にも、徹底的に堕ちてみたいという、という願望はある。

 それから、現代の司法制度、特に裁判官の能力、資質について書いている。
 
 みんな病んでいるのだ。

 裁く者、裁かれる者。
 殺された者、殺した者。
 逮捕した者、逮捕された者。
 日本人、ネパール人、・・・・・・

 この事件を知れば知るほど、虚しく、ガッカリする。
 どうしたらいいんだ、これから。


 たそがれ清兵衛  藤沢周平   新潮文庫  目次に戻る
 藤沢周平を読むのは「冬」がいいと思っていた。
 池波正太郎の「鬼平」や「剣客シリーズ」も「冬」のものだなあと、おんなじで「こたつ」で丸くなって読むのが似あう、というか、読みたい、と思っていた。

 という思い込みがあったのだが、先日の出張の際にどうしても時代小説が欲しかった、いろいろと探したのだが「蝉しぐれ」以来気になっていた藤沢周平を選択、その中でも映画になった「たそがれ清兵衛」にしようと・・・迷った末に、最初からきまっていたかのように選んでしまった。

 ちょっと話がずれてしまうが、ボクは迷いが多い、多いのであらかじめ何かを決めておくことにしている。たとえば、一人でご飯を食べなければならないときは、もう何時間も何日もまえから決めている。
 でも、いざとなると迷うんだなあ・・・・
 それで、いろいろ、ウジウジと、行ったり来たりして、決定まで時間がかかる。で、結局は最初に決めていたものにおちつくのだけれど・・・

 というようなことで、本屋で最初に目にした「たそがれ清兵衛」
 でも、これって冬ものだしなあ、と迷い、かれこれ1時間、で決められず、他の本屋にまで移って、それで「まあしょうがないなあ」と思って買ったのです。

 で、よくある話だけれど「まあしょうがないなあ」と思って買ったもの、読んだもの、やったもの、が「大当たり」
 期待をしない分だけ、感激が多くなるからなのかもしれないけれど、大当たり。

 たそがれ清兵衛、という題名ですが、短編集です。
「たそがれ清兵衛」
「うらない与右衛門」
「ごますり甚内」
「ど忘れ万六」
「だんまり弥助」
「かが泣き半平」
「日和見与次郎」
「祝い人(ほいと)助八」
 という8編です。

 題名からわかるように、あだ名を持った人の話です。
 いずれも「藩」の派閥争いに巻き込まれ、あだ名を返上するようなはたらきをして、そしてまた戻る、という「筋」なのですが、これらの主人公がいずれも魅力的で、だから、話は面白い。

 派閥争いという陰湿な事件と主人公たちの爽やかさ。
 というより、派閥争いに巻き込まれる主人公たちが、実は組織や藩なんてどうでもよく「自分」ということを第一にしているということ。江戸時代に「個人主義」だった者たちという、今までの時代小説とは違った視点、というのが心地よい。

 自分というものを持っている者、自立している者、こそがいい人生を送ることができるのではないか。

 そんなことを、この短編集で言っているのではないか。
 派閥争いや権力争いは、天下国家のための布石なんだと、男にとっては生涯の一大事なんだと、そう思っているのは実は馬鹿げたことで、自分をしっかりとさせることが、実は天下国家のためになるんではないのか、そういうことを感じた。

 次の藤沢周平を何にするか、読み終わって先ず考えた。

 青い山脈  石坂 洋次郎   新潮文庫  目次に戻る
 小学校6年生のとき、初めて「文庫本」を読んだ。
 それが「青い山脈」でした。まだ旧漢字、旧仮名遣いの本だったと思う。
 ませてましたね。小学校6年生では。多分、テレビで放送していたと思うのですが・・・それも午後から再放送で見たような・・・

 で、今回、本屋にあったんです「青い山脈」が。
 何年か前に、横手に行ったとき「石坂洋次郎記念館」がありまして、そこでも売っていたんですが、欲しかったけど買わなかった。なぜなら、約一時間ほど見学したのですが、私一人だったからです。
 昭和27年11月2日に文庫の初版がでています。1952年です。そして今度買ったのが平成14年5月第94刷です。もう廃刊になっていたとばかり思ってたら、まだ出てたんですね。イヤー驚きました。

 さて、何回も読んだので、ほぼスジはわかっています。
 それでも、いわゆる「大人」になってからは初めて読むので、ちょっとワクワク緊張でした。

 イヤーまたまた驚きました。
 この物語は昭和22年に新聞小説として発表され、ベストセラーになった。そして映画化され大ヒット。主題歌はリアルタイムで聞いていない我々世代も前奏から唄える。だから、物語の内容はよく知っているつもり、つまり「いわゆる青春の物語」の代表作のようなもの、と、認識していたのです。

 しかし、今回読んで、青春小説であることには間違いないけれども民主主義」というテーマで描かれたと言ってもいいのではないだろうか、なんて考えたんです。
 
 
(島崎雪子)
 「いいですか。日本のこれまでの暮し方の中で、一番間違っていたことは、全体のために個人の自由な意思や人格を犠牲にしておったということです。学校のためという名目で、下級生や同級生に対して不当な圧迫干渉を加える。家のためという考え方で、家族個々の人格を束縛する。国家のためと言う名目で、国民をむりやりに一つの型にはめこもうとする。
 それもほんとに、全体のためを考えてやるのならいいんですが、実際には一部の人々が、自分たちの野心や利欲を満たすためにやっていることが多かったのです。(後略)」

 
 いまの日本だって、これと同じじゃないですか、学校や家や国家、というのが、会社など自らが所属する組織になっただけではないですか。

 そして、この物語に登場する進歩的な人々たち、六助や新子、沼田や雪子、そしてがんちゃんたちだって、頭では民主主義を理解しているが、実はまだまだ、封建的な考え方や行動様式からは逃れられないでいる。
 これは現代人と同じだ。
 いやむしろ現代の人々は「民主主義」は当たり前だと思っているうえで、封建的な行動様式や考え方を知らず知らずのうちにとっている。このほうが、病の根は深いのかもしれない。

 日本は第二次世界大戦で負け、平和的に民主主義を与えられた。
 その前は、徳川幕府が明治政府にあまり血を流さずに政権交代をした。
 近代、日本では血を流して民衆が勝ち取ったものなどないのだ。

 与えられた民主主義と、心と体に染み付いた日本文化は、いまだに融合せず、いや変に融合して、日本はヘンになってしまったのではないか。

 青い山脈の六助や新子は、いま75歳前後、いまの日本と民主主義について、あらためて問いたい。
 そんな気持になった。

 青春小説を読んで民主主義を考えてしまった。
 
 青い山脈ってすごい!!
 でも、面白いよ、是非読んでみて。
 
 ボクとしては、本編のラブレター事件より、りんごアバンチュールのほうがスキ。


 慟哭  貫井 徳郎   創元推理文庫  目次に戻る
 文庫の「帯」には、北村薫がこう書いている。
 
題(タイトル)は『慟哭』 書き振りは《熟達》 読み終えてみれば《仰天》

 これに魅かれて購入。
 出張用に欠かせない「本」を探していて、エッセイ系二冊、短編小説一冊まで決まったが、メインとなる長篇小説がきまらない。
今回は「推理小説」で行ってみようか、と言うところまではきまったが、さてナニにしようか定まらない。宮部みゆき、乃南アサ、篠田節子と候補をあたるも「いまひとつ」気が乗らない。
 それではと、今まで読んでいなかったものに手をだした、というわけ。

 裏表紙には「(前略)養女殺人や怪しげな宗教の生態、現代の家族を題材に、人間の内奥の痛切な叫びを、鮮やかな構成と筆力で描破した本格長篇。」とあり、ゾクゾクした感じで読み始めた。

 本格派です。
 ハードです。

 推理小説のもっとも大切な部分「何故=動機」と「誰が=犯人」を最後までドキドキ、ナゼナゼしながら読むことができる。
 そうして・・・・

 この本の帯の裏には、北村薫がこう書いている。
 
    
この作品について、あれこれいう必要はない。
           読んでいただければ、
 慟哭、熟達、仰天の線で納得していただけると思う。
 そして、人に話すときには《こういう類いの本》であると、
      絶対に明かさないようにしてほしい。
         意地悪をしてはいけない。
           殺人の動機になる。

 と、あるので、詳しくは書かないが、すごい「結末」である。
 言い方をかえれば「ずるい」である。

 したがって、この本を薦めるにあたっては、騙されても怒らない人、に限る。
 なぜなら、ボク、ちょっとムッとした。

 でも、その後、フヘーっと思った。
 
 慟哭の次はこれだ!
 という、貫井の本があった。読んでみようと思う。

 適者生存  長谷川 滋利 
   三流     長嶋 一茂   幻冬舎文庫  目次に戻る
 長谷川滋利って、クレバーな投手と言われている。
 クレバーってのは、賢いとか利口という意味だそうだ。

 彼は中学校時代に全国大会優勝をしている。
 しかし、彼は高校に入って大学にいってちゃんと勉強をしたい、その上でプロになりたいと思っていた。この辺がすごい。
 そして彼は、高校は東洋大姫路(甲子園に3回出場)大学は立命館大学(先輩に古田)、プロはドラフト一位でオリックスとハタから見ればうらやましい、順風満帆な野球人生を送ってきている。しかも、今年は大リーグマリナーズで素晴らしい成績を上げている。

 このような野球人生は全て、長谷川から言わせれば「なりたい自分をを常に追い求めてきたから」できたことなのだそうだ。
 そしてもうひとつ、自分自身で自分を超一流ではないが、一流のチームでやることによって、その環境に適応をしてきたから、だそうだ。それが題名にもなっている「適者生存」ということ。

 環境にアジャストすることが、生きのびてゆくことにつながる。ということ。
 アジャストする努力を惜しまないということ。
 常に、上を目指すということ。

 これらは、何も野球の世界のことだけではない。
 我々の身の回りにもいっぱいある。せっかくの才能を徐々に枯らしているのは、その環境にアジャストすることより、自分に環境を合わせているからだ。つまり自分を中心とした環境だけに狭めてしまっている、ということ。惜しいなあ、って思う人はたくさんいる。

 長谷川は、環境も上を目指している。その上の環境に自分をアジャストさせようとしている。
 そのためには、クレバーだけではなく、球威やスピードを少しづつあげてきている。
 クレバーというのは、それを生かすことのできる、球威、スピード、コントロール、球種がなければできないことなのだ。
 超一流はそんなこと関係ないけど、そうでない場合は、環境にアジャストし、自らの環境を向上させなければ、生きのびることはできないのだ。
 
 長谷川がうらやましい。

 それと反対だったのが、長嶋一茂である。
 潜在的能力は超一流、しかしとうとう花開かなかった。
 彼の場合は、長谷川と違って、一人で考えることができない環境にあった。偉大な父がいた。偉大な父を取り巻く人たちは、一茂をほっておかなかった。数々の助言は、数々だったので助言にならない。その中には、貴重な助言もあったのだが・・・、要するに味噌もくそも一緒になってしまって、一茂には何の益もなく、逆に間違った方向へと導くのであった。

 一茂は気の毒である。彼は三流だったのに超一流の環境から逃れられなかった。ステップアップしてゆくのではなく、いきなり超一流で勝負をしなければならなかった。それでもある程度できたのはその潜在的能力があったからだろう。

 この本「三流」を読むと、一茂だってクレバーである。
 長谷川がステップアップしながら自分を育てていったのに対して、長嶋はできなかった。その違いだけなのに、人生は大きく変わるんだなあ。

 いずれにしても、小難しい哲学書と同様の真理が「適者生存」「三流」にはある。

 外道の女  団 鬼六 講談社文庫 目次に戻る
 1998年から99年まで「小説現代」に掲載された5つの短編をまとめたもの。
 団鬼六の文庫本を買うのには少し抵抗があったりする。
 幻冬舎から出ているものの多くは真性(?)SM小説で、読みたい気持はいっぱいだけど、買うのもなんだし、読んでどうする?というものもあるし。

 それでも、団鬼六のSMものは時々読みたいときがある。「花と蛇」は全10巻中4巻ぐらいまで買ったけれど、なんか同じところをぐるぐる回っているような気がして、飽きてしまった。
 で、最近、中間小説雑誌に短編を発表したり、SM風ではあるけれど、真性ではないというものが多く出てくるにつれて、多く読むようになった。

 真性SM小説や伝記歴史もの以外の作品は、小説風であり自伝風でもあり、なんとも不思議なのであるが、兎も角、私「団鬼六」が語り手となって物語は進む。この短編5本も同じである。
 
 
神楽坂物語
 私は若い頃芸者と同棲をしていた、その女「菊香」は「いじめて」という。
 ということで、SMっぽくは話が進むが、それはサービスであって、実は「女」とはなにか?「愛」とはなにか?それは「形」があるのかということが語られ、そして、自らの自堕落さを嘆いている。
 それにしても、この話が作者の経験であったとしたら、うらやましいっちゃうらやましいなあ。
 以後4篇についても「へえーいいなあ」という感想は変わらない。

 
楽園
 今度は「葉子」が主人公。
 彼女は、私の勤めている会社の社長の昔の女で「M性」の女。だが今は・・・・
 ということで、これも「愛の形」とはなんとも不思議なものだなあ、というのが主題(ではないか?)

 
夜想曲
 今度は「志摩子」さん。
 私は「幻覚」を見るようになり、精神科へ通う。その医師はSM趣味で団鬼六と聞き、同好の医師と共に、鬼六先生に手ほどきを受け、そして「志摩子」と関わる。
 この物語も鬼六先生はとってもいい思いをするので「いいなあ」という感想と、もう一つ「ホントにこういう人がいるの?」というのがある。こんな女の人や医者いるの?人というのは不思議なものである。

 
SM劇団・紅座
 この話に登場する女の人は「柳子」と「友子」という姉妹なのだが、実際の主人公は実在の人物。SM界では有名な人「美濃村晃(喜多令子)」である。
 なんというか、鬼六先生の周りに集まる人たちは奇妙な人が多いが、この物語に登場する人たちは全て「ヘン」だ。
 SMってどことなく陰湿なカンジがするが、なんか陽気なのである。
 これも「ほんとにこんな人がいるの?」というカンジ。

 
外道の女
 これは「織江」
 ヤクザの姐さんである。この物語はSMではない。が、男の間を動いてゆくというか動かされていく女を描いている。
 鬼六先生の小説は饒舌で、エピソードが多くて、いったいナニを話すんだろうか、という興味がおおいのだが、この物語だって主人公ともいうべき織江がでてくるのは半ばである。
 これは「運命」というか、人は何故、何のために生きるのか、ということや、人というのは忘れるということができるから生きられるのかもしれない、なんてことを考えさせられる。

 団鬼六は
「(前略)こういう人々が私を同好の士、というよりも同好の権威者と見て接近してくるのははなはだ迷惑なのである。私は第一、彼等が想像しているような性的サディストではない、と自分では確信している。低俗な嗜虐的官能小説しか書けないだけであって病的な変質的趣向はない。(後略)」と云っている。
 そうなんだろうなあ、とは思うけれども、やっぱりある意味権威者ではある。

 ボクの興味は、こういう人たちの行為ではなく、なぜ、そういう「性的倒錯者」になったんだろうか、あるいはそれがその人の表側とどのようなつながりまたは折り合いを持っているのかということなのである。
 人は単純ではないということはある程度知っているが、複雑さや曲折度についてすごく興味があるのである。
 何故、そんなことに興味があるのかはよくわからない。
 ということは、多分、性的倒錯者たちも、自分の性向については明確に語れないのかもしれないんだろうなあ、と思う。けれども知りたい。という堂々巡りをしているのだ。
 

 蝉しぐれ  藤沢周平 新潮文庫 目次に戻る
 NHK金曜時代劇で8月22日スタートした。
 こういう、テレビドラマなどの原作ものは、放映中に買うことはできるだけしないで、放映後買って読むことを常としていた。
 しかし、今回は、こらえきれずに買ってしまった。
 あまつさえ、読み終えてしまった。

 だから、テレビドラマの結末を知っているのだ!

 そんなことはどうでもいい。

 藤沢周平の小説の印象は「おとなしい」というものである。
 派手な或いは奇抜な若しくは劇的な物語ではない。

 で、ちょっと派手好みの私としては、雑誌などに掲載されていれば読むものの、本を買ってまではなあ、と思っていた。
 いやいや間違いでした。

 波乱万丈ではなく、淡々と物語は進んでも、どきどきわくわくするものです。
 主人公、牧文四郎の、青春時代の淡い恋、理不尽な父の死、そしていつまで続くかわからない謹慎の日々。そういうことに対して「がんばれよ、いつか明るい明日がある」と応援をしている自分がいる。

 好ましいほどの主人公である。
 そして主人公に近い人たちの善人ぶり。

 こんなことあるわけないよ。と思いつつも、こういうふうであって欲しい。こんな人たちが自分の周りにいたならば、なんて思わせる。
 清々しく、胸がスーっとする物語である。

 今年の夏は雨が多くてジメジメとしていたが、この物語を読み爽やかな風にあったようだ。
 テレビも後2回を残すのみ。楽しみである。水野真紀が清楚感があってよろしい。主人公役の内野聖陽も落ち着いた様子と燃えたぎる心をうまく演じている。と思う。

 おかしな男 渥美清  小林信彦 新潮文庫 目次に戻る
  東電OL殺人事件    佐野眞一 新潮文庫
   宮崎勤事件        一橋文哉 
新潮文庫
 この三冊を続けて一気に読んだ。
 この三冊に共通するものは「人間とは複雑なものである」ということ。
 つまり、人はイロイロな性格を持っているけど、他人からは一つの性格しか見えないということ。

 池波正太郎の鬼平犯科帳で長谷川平蔵が「人は悪と善をあわせもっている」と看破したように、この三冊ではそれぞれの人が異なった環境では違った人柄を見せている。
 人は不思議だ。
 どこにもステレオタイプの人間なんかいない。それぞれ個性を持って生きている。
 ということが、しみじみと、つくづくと、そしてずっしりと感じさせられた。
 重い重い三冊であった。

おかしな男 渥美清 小林信彦
 
 小林信彦と渥美清は、古い友人である。
 若い時分に二人で夜を徹して「芸」「コメディ」について語り合う。以来つかず離れずの距離で付き合い、その中から渥美清の人間像を描いている。
 従って、これは小林信彦から見た渥美清なのである。

 しかし、小林信彦は極力、主観的な思い入れを排して渥美清を描いている。
 主観的思い入れを排してというより、ずっと冷静にもしくは冷たく描いている。
 だけど、実は深い思いやりがある。

 あとがきが小林信彦の姿勢と、渥美清の人柄を短く表している、それがこの本なのだ。
「ひとことでいえば、渥美清という人物の若き日の<面白さ>の記憶が、ぼくにこの本を書かせたのだと思う。
 彼は複雑な人間で、さまざまな矛盾を抱え込んでいた。無邪気さと計算高さ。強烈な上昇志向と自信。人間に対して幻想を持たない諦めと、にもかかわらず、人生にある種の夢を持つこと。肉体への暗い不安と猜疑心。非常なまでの現実主義。極端な秘密主義と、誰かに本音を熱く語りたい気持。ストイシズム、独特の繊細さ、神経質さをも含めて、この本の中には、ぼくが記憶する彼のほぼすべてを書いたつもりだ。」


 人は、渥美清ほどではないにしろ、自分の中に多くの矛盾した自分を抱えているが、うまく安定性を保っている。
 しかし、その安定を保つために起こした行動が不幸を呼ぶことがある。

東電OL殺人事件  佐野眞一
 
 これは、東京電力の美人エリートOLが、夜は売春婦であった、そして何者かに殺された事件である。
「われわれはこの事件が残した澱のようなもやもやをいまだ抱いたまま、殺された彼女のとった行動を猟奇と困惑のまなざしで眺めている」
 と著者は言う。

 このルポは二通りの物語を追っている。
 一つは殺されたOL、そしてもう一つは殺人犯として逮捕されたネパール人。

 殺人事件としての犯人探しの部分は、そして裁判での検察側の異常性は、どこか、松本清張の「日本の黒い霧」を思わせる、陰謀性が感じられる。真の犯人は誰かという謎。
 しかし、私は、この部分はどちらかというと「次」「従」のものであった。

 「主」の興味は殺されたOLにある。(興味という言葉が不謹慎のようであるが、いわゆる三面記事てきな興味ではない)
 OLの姿を明らかにするごとに、彼女はいったいどうして、売春婦をしていたのか、という疑問が大きくなる。
 年収一千万円近く、社会的プレステージも申し分のない超一流企業の管理職キャリアウーマンが、なぜ。

 しかも、自らが客を誘う「たちんぼ」として、毎晩4人の客を自らに課し、その結果をメモとして残す。
 なにからなにまで、通常では考えられないことを、何故、彼女はしていたのか?

 本人が亡くなったあと、彼女を追いかけても、それぞれの人が自分の知識・経験のなかから彼女の心理をを推理するが、疑問は解けない。推理のまま、疑問のままである。
 
 しかし、彼女が生きていても、自らを説明することは不可能だったのではないか、そんな思いがする。
 人は不可解である。

宮崎勤殺人事件 一橋文哉

 幼女連続殺人の犯人である、宮崎勤は、極悪非道な犯罪者であるが、何故彼はそのような犯罪を犯したのか、それは彼を取り巻く環境、生い立ち、肉体的欠陥にあった。
 オタクという奇妙な生き方がクローズアップされる。
 
 でも、そんなものだけなのか、そういう思いがこの本をよむ要因であった。

 警察、検察側は宮崎勤をひとつの型として社会に示す。そのほうが社会の同意を得やすいからだという。
 それもどうかなあ、ずいぶんと国民をバカにしているなあ、と思う。
 しかし、それに見事にマスコミがのった、そして、いわゆる有識者がそれぞれの意見をわかりやすく説明した。
 わかりやすいということは単純である。
 従って我々が当時知らされていた宮崎勤は「ヘンナ奴」であり、どこにもいるような奴ではなかった。

 いったん犯罪者になると、それも奇矯で、残酷で、不可思議な事件の犯人となると、今や、数代遡ったあたりの先祖から掘り起こされ、本人のちょっとした残酷なエピソードが大きく取り扱われる。

 それを擁護するため弁護士たちは型で押したように「精神異常」を訴える。
 宮崎の場合は「二重人格」もしくは「多重人格」とされる。

 この本では、宮崎は自分で書いたシナリオどうりに演じたという考えも示されている。

 人は単純ではない。
 しかし、単純でないとわかりづらい。
 人を理解しようとするとき、判らない部分があるんだということを、わかろうとしなくてもいいんだということを、われわれは知っておくべきではないか。

 他人の入り込めない部分、他人には理解できない部分があるから人なんだ。と思う。

 しかし、人は人を理解したいという欲求が大きい。
 例えば血液型でとりあえず人間を4つのタイプに分ける。或いは誕生の星座でわける。体型で分ける。
 だけど、それは人として普遍的なタイプの部分であって、よく見ればあたりハズレが半々。それでもあたっている、という。
 そんなタイプ分けを個々の人に当てはめようとすると、実は逆に理解不能となるのではないか、と考える。

 いずれにしても、人とはなんなのだろうか、と、しみじみと、つくづくと、そしてずっしりと考えた、8月の末であった。


 Dr.コトー診療所 1〜8巻 山田貴敏 小学館 目次に戻る
 今話題のドクターコトーである。
 毎週木曜日夜10時楽しみにしているテレビ番組の原作、マンガである。

 Dr.コトー、こと、医師・五島健助は、日本本土から船で6時間の離島、古志木島にやってくる。
 そこで、僻地医療にかけるのだが、僻地の限られた医療ではなく、自身が大学病院で得た知識と技術のありったけをだした医療を展開する。
 そして、もっと重要なことは、知識と技術だけでなく、心がまっすぐ、もうすこしナニしてもいいんでないかい?と言いたくなるぐらいまっすぐである。
 それが、この物語を支えている。

 テレビを見てもわかるが、ありそうな出来事が「そんなにうまくいくかよ、現実は厳しいぜ」というくらい、いい方向で解決する。
 だから、ありそうもないことなのだが、テレビではあの景色が、マンガではそこだけがリアルというカンジの手術や怪我などの場面が、なんとなくありそう、という気にさせる。

 リアルとフィクションの割合というか融合がちょうどいいアンバイなのだ。

 テレビを見てからマンガを読んでいるので、つまり原作が後なので、ああこの辺は違うなあ、と落ち着いていられる。
 これが原作を読んだ後、テレビなど映像で見ると、ガッカリする。
 そういう意味では、今回は、適切な手順といえる。

 さて、名医Dr.コトーが来たからといって、島の暮らしや健康が劇的に変化するわけではない。しかし、ゆっくりと変わってきている。
 名医とは、知識や技術だけではない。
「病気を見ずに病人を見る。人が人を治す」
 のだそうだ。

 病気というのは、病人が治るという気持ちがない限り、いくら高度な医療機器を使っても、医者の技術や知識があっても治りはしない。
 とすると、名医というのは病人に治そうという気持ちを起こさせる人なのかもしれない。

 Dr.コトーは、医者というのは免許だけではないんだ、ということを言いたいのかもしれない。


 陋巷に在り 9 眩の巻  酒見賢一 新潮文庫 目次に戻る
 勘違いをしていた。
 第7巻の「医の巻」の次あたりからは小説新潮の連載につながると思ってた、ら、この第9巻の次でも、まだまだつながらないようだ。

 ということで、前巻で、「顔回子淵」(がんかいしえん)は「子蓉」(しよう)の媚蠱(びこ)で病に陥った「、」(よ)を助けるため、医げい(漢字が変換されない)の力により、冥界にやってきた。
 で、冥界で女魃(じょばつ)に殺されそうになったとき(冥界で殺される、というのもナンダカ変だ)、祝融(しゅくゆう)に助けられる。

 と書いたって、読んでない人にはナニガナニヤラの状態でしょうね。

 兎も角、主人公の顔回は、冥界で、を助け無事に現世に戻るのだ。

 この冥界での出来事はすごく幻想的であり哲学的である。
 祝融は言う
「堕落とは礼の本義からあまりにも離れてしまっていることをいう」
「(前略)無力の者も、性根のない愚かな者も、用あらば立ち向かうこともあるのだ。無力としてもそれしかなかろう。であっても、人は取り返しのつかぬことはしてもならないし、させてもならぬ。故に禁則という」

 なんだかわからないけれど、なんとなくすごいではないか。

 言い忘れていたが、主人公の顔回とは、孔子の弟子である。
 従って「礼」とはどのようなものであるか、ということも主題のひとつである。
 祝融はこうも言う。
「礼が神から遠ざかる道に向うことは間違いではない。(中略)礼の本義に立ち戻るならば、われらを敬遠して離れて咎ないのだから」
 今我々は、昔の人々が何もカニもを「神」のせいとしてただ祈るだけだったことを、知恵もなく努力もなく、祈れば解決するというものではあるまいに、と笑うことはできない。
 人は、その後、神から離れ自立した。
 しかし、今、我々は、何もカニも、行政のせいにしてはいないか?行政に助けてもらうよう祈ってはいないか?
 神から自立したあとは、行政に依存している、そんなかんじがするのだ。

 そんなことまで思うのだが、この本を読んでいると、思わずページを閉じて「閑話休題」をしてしまうのだ。

 礼のために「楽」も存在する。筆者は楽についてこんなことも言っている。ちょっと長いが引用する。
 
 
現代の曲の大部分は、人を興奮させテンションを高める刺激の多さが特徴で、人を弛緩させ鎮痛させる刺激が少ない。もしリスナーがトランスや忘我を求めるなら、その際、ライブセッションやレイブの会場は、現代的な意味での儀式空間となり得るし、それに宗教的共同体的意味が加われば礼行為となり得る。ただし主宰者(演奏者)は、参加者の意識を極めて異質な状態に運んだ以上は、同じくまた音楽を使って連れ戻し、鎮静させる責任がある。その責任を負う約束事が礼楽に含まれており、それが礼であるとも言える。
 孔子のときに比べて、現代の楽に偏りのあることは明らかである。孔子が現代の楽について語るとすれば、舞楽は礼を忘れてはならず、なおざりにしては立ち行かない、とでも云うであろうか。


 うーん、すごい。
 更に

 
人がただ寿のために養生するのなら、不毛なことであり、本末転倒であろうよ

 耳が痛い。
 と言うわけで、連載は終了したとはいえ文庫本はマダマダ続く。


 奇術探偵 曾我佳城  秘の巻・戯の巻  泡坂妻夫 講談社文庫 目次に戻る
 1988年というから平成元年、その頃、小説現代に連載ではなかったが掲載されていて、小説現代を読むときには載っていると嬉しかった。
 その後、文庫本では「天井のトランプ」などが出ていて、購入し読んでいたのだが、今回文庫版で、秘の巻、戯の巻と二冊で出て、見つけたとたんに買ってしまった。

 これは推理小説である。
 秘と戯あわせて、22の物語があり、これで、主人公・曾我佳城が解決する事件は終わりである。
 こんな終わりかただったのか!というラストで、「ええっそんなあ」という感想。

 曾我佳城は、元奇術師で、それも日本最高の奇術師。それが結婚と同時に引退した。
 その後、夫と死に別れ、莫大な遺産で奇術の殿堂を作るとともに、奇術(マジック)を愛する人たちと交流を続ける。
 その交流の中で、或いは偶然に、数々の事件に遭遇し、解決していくという物語で、一話完結なので読みやすいし、トリックも凝ったものがおおくて、解決部分を読んで何回考えても、よくわからない、ものもある。
 しかし、この物語は、トリックがメインではない、トリックに凝っているように見せて、実は人を描いている、その辺がたまらないのである。
 そして、なんともいえない、曾我佳城の魅力。

 というわけで、この物語は奇術(マジック)の話でもある。
 
 最終3話は今回初めて読んで、ウーン、という気持ち。
 そうですか、そうなんですか。という感じ。


 54歳引退論  布施克彦 ちくま新書 目次に戻る
 副題は「混沌の長寿時代を生き抜くために」である。

 著者の言う「引退」とは、「サラリーマンを引退して働く」ということで、退職をして悠々自適の生活をするということではない。
 
  実は、私も60歳の定年まで働いたら、次の仕事は無いと思っている。だから、何らかの手を打たないと、その後の人生がつまらないものになるんじゃないかと、危機感を持っている。
 だから、この本を買ったのだ。

 生殖能力がなくなっても生きているのは人間だけらしい。
 生殖能力がなくなった以後を「老後」と定義すると、人間にしかない時代(老後)をどう生きるか?ということが人間に課せられたものといえるのではないかと愚考するのだ。
 そう意味で、我の老後はどうすべきか?なんて考えている。

 ボヤーっと考えると、老後とは教育ではないかと・・・・つまりそれまで蓄えた知恵を子孫に授けるのが、老人の役割ではないかと思う・・・・
 
 というような気持ちで読んでいると、本書はちょっと違う。
 エリートの老後、というカンジがしたりするのだ。
 
 金を貯め、海外駐在員になってグローバルな視点を得、子会社の社長または役員として総合力を養う、そして引退、なんてことできやしませんよ一般には。

 そのような方法や手法を除けば、著者の主張は充分肯んぜられる。

 日本はもう変わっている。変革の時代というが、すでに変わっている、それに人々が気づくのが遅いだけだ。
 60歳で定年退職したって、年金では生活できないのは目に見えている。そして60歳で次の仕事にありつけるのは非常に困難だ。なによりプライドと待遇がかみ合わない。
 だから定年後のことを真剣に考えなければならない。それにはもう40代前半から綿密な準備が必要である。

 全くそのとおりだと思う。
 定年は、昔の定年とは違う。

 誰も老後の面倒なんかみてはくれない。
 昔の老人は充分自立していた。
 問題は、福祉国家になってからの老人だ。
 国が老後をみてくれるなんて考えてはいけないのだ。老後を支えてくれる人口が減少すれば老人は捨てられる。
 
 もしかしたら、日本国民の自立とは、これから老人が率先して行うべきものなのかもしれない。
 つまり、必要に迫られた自立だ。
 国も、コミュニティも、子も孫も、だれも助けてはくれない、という状況で、やむなく自立する。
 そして、自立できない老人は、ただ老いるだけ・・・・・になるかもしれない。

 その有様を見て、後に続く人間たちは何かを考える。

 とすれば、老後に自立するというのは、まさしく教育になるのではないか、なんて考えたりしたのだ。

 被差別部落の青春 角岡光彦 講談社文庫 目次に戻る
 放送禁止歌を読んで、あらためて「被差別部落」に興味を抱いた。
 そうしたところ、講談社文庫の7月発刊で本書がでた。これは縁である。早速購入した。

 購入のもう一つの要因は、本書が悲惨な被差別部落の状況だけを描いているものではないからである。
 いわゆる「部落」に関する本が出ていることは知っていたが手をだす気になれなかった。それは「この状況を見て、あなたは何を考える?」「今あなたにできることはないのか?」といった問いを喉元にあてがわれているような読後感になりそうだったからだ。

 同和問題は、私の住んでいるところでは実感としてない。
 ある役場で
「どうわ問題の件で電話したのですが、担当を願います」
 という電話がかかってきたので、教育委員会の事務局へ回した。「童話問題」だと思ったそうだ。
 つまり、わが地方では「同和」ということさえよく知られていないのだ。
 部落問題とか同和問題というのはぴんとこない、というのが実感で、このような問題について、テレビなどで見聞きしたときに思うことは「差別はいけないなあ」という、ごくあたりまえのことだけだった。
 
 著者は1963年生まれ、私より7歳年下である。
 著者は被差別部落に生まれ育った、が、差別を受けたことが無い、のだそうだ。
 但し、部落出身ということは強烈に意識をしているようだ。

 このルポを読むと、今は差別というのは表立ってないようだ。差別する側もされる側も、あまり気にしなくなった、そうだ。
 だけど、それは自分に直接関係の無いことに対してであって、結婚とか就職とかという問題になると芽をだしてくる。

 愚見だが、これは地縁、血縁、あるいは勤縁(勤め先)のコミュニティが、昔よりずっと薄い関係になったからではないだろうか。もっといえばコミュニティそのものがなくなってきたことによるものではないだろうか。
 昔は、生きてゆくためには何かしらのコミュニティにきっちりと所属して、そのなかで分を果たすことが求められていた。しかし今は違う。今は所属ということについてわりと「ファジー」いい加減になってきている。厳しい戒律や規律によって統制されているコミュニティなど無いのではないか。
 だから、部落への差別というのが少なくなってきたのではないだろうか。

 そしてもう一つは他人に対して無関心或いは無関心を装うことになったことだろう。
 個人のプライバシーというのが優先で、他の人の生き方や行動について、面と向かって語る人がいなくなった。
 (それは別の面では犯罪の黙認みたいなものになってきている)
 
 だから、自分と距離がある場合は、口も手もださない。しかしモロに直接関係するようなところに、何かがくると過剰な反応を示すんだろう。

 それがいいことなのか、悪いことなのか、ということではなくて・・・・・・
 
 部落という問題だけでなく、いろいろな差別がある。
 在日韓国人、女性(ジェンダー)、障害者など差別廃止の運動があるものや、家柄、職業、学歴・・・・・
 我々の周りは差別だらけといってもいいくらいだ。
 部落の中にも差別がある。

 つまり、人は差別をする動物なのかもしれない。
 いったい「差別」とはなんなのだろう?

 著者はあとがきで
 
部落問題の報道にはいつも物足りないものを感じていた。活字にしろ映像にしろ、そこに描かれている部落は、差別の厳しさ、被差別の実態ばかりが強調されていて、私はいつも「それだけやないやろー。おもろい奴も、笑える話もあるで」と思っていた。
 と述べている。

 差別について語るときのひとつの新しい姿勢だと思う。

 差別を敬遠したり、隠したり、強調したりするのではなく、日常の一つのこととして考えたいという著者の姿勢が、頼もしく思えた。


 捨て童子 松平忠輝  横山光輝 原作:隆慶一郎 智恵の森文庫 目次に戻る
 活字中毒者といえどもマンガは読む。
 時にはマンガを無性に読みたくなることがある。

 この、捨て童子・松平忠輝は隆慶一郎の原作である。
 原作を読んでいない。伝奇小説というのはあまり好みではないのだ。
 しかし、マンガとなるとそれは別の話。こういう話はマンガに限る、というカンジなのだ。

 さて、松平忠輝は徳川家康の6男で不遇の生涯を送った男である。
 山岡荘八の「徳川家康」では忠輝は、家康の子供たちの中でもわりと描かれているほうだ。
 そちらでは、忠輝は大久保長安と伊達政宗という二人の大人にうまく操られた男として描かれている。

 このマンガでは、忠輝は「鬼っ子」とされている。
 鬼っ子とは、異能の子供ということである。忠輝は、幼少から習いもしないのに武術に長けていたが、更に忍者・奥山休賀斎に育てられ、兵法を学ぶ。

 忠輝は異能。つまりはある種の天才である。
 そこに凡才将軍秀忠が嫉妬し、将軍の座を奪われるのではないかと、何かと忠輝を目の敵にする。
 家康は最初は忠輝を嫌っていたが、その才能を惜しみ、なにかと庇いだてをする。

 豊臣と徳川の争い、徳川内部の争いが絡みに絡んで、思いがけない展開となって行く。
 
 そうか、そのように解釈するのか、というものもあったりして非常に面白く4巻をあっという間に読破してしまった。

 人と人の争いというのは、その原因が単純であれば、仲直りが容易である、ということを思った。
 近親の争いは嫉妬や欲が絡んで、そして相手を知っているだけに、仲直りは容易ではない。特に男の嫉妬というのは歪んだ形で現れる。嫉妬を自ら認めたくないのだ。

 そんなことを思った。そして原作も読んでみようかななんて思ったりして。

 それにしても、横山光輝は歴史ものをよく書いている。線が単純できれいだから、読みやすい。
 

 放送禁止歌 森達也 智恵の森文庫 目次に戻る
 森達也の名前は、週刊朝日で知っていた。
 オウムの信者側にたった映画「A」を作ったというひとである。そのとき「なるほど」と思ったのだ。オウムの信者にだってマトモもしくは真面目な者はいるだろう。そうだとしたら、オウム真理教の信者全員が悪者という視点というのもいかがなものか、という考えを持つ人が出るのもアリだろう。
 そして報道の最前線では、報道陣と信者、住民と信者はわりと和気藹々にやってたらしい。
 しかし、報道はそんなことを知らせようとはしない。
 それは報道の自主規制「読者はそんなことを求めていない」という思い込みからだったらしい。

 放送禁止歌もそうらしい。
 と、森達也は考えた。
 そしてそうだったのだ。

 誰かからクレームがあったということではなく、現場の判断で放送禁止にしているらしいのだ。
 つまり自主規制だということ。しかも、それが放送業界一律で決めているということ。

 日本人は横並びが好き。みんながやっていれば自分の判断は別として従う。
 だから、誰もやっていないことをやろうとすると、どこかに同じような例があるのかを探す、あると安心する、なければしない。

 放送禁止歌もその考え方。何故放送禁止なのかはだれも知らない。だけど、放送禁止。
 
 著者は1999年「放送禁止歌〜唄っているのは誰?規制するのは誰?」というドキュメンタリー番組を作成し放送した。
 もっとも放送時刻が午前4時15分ということで、反響などはないと決めつけていたらしい。
 しかも、放送禁止歌を放送したのだ。

 で、反響があり、放送禁止歌について更に取材し、考えた結果の本がこの本である。

 後半には「竹田の子守唄」に関する取材もしている。
 私も始めて知ったのだが「竹田の子守唄」は放送禁止らしい。

 そこで「部落解放運動」とのかかわりが生じる。で、この運動についても著者は関わってゆく。

 人間社会がテレビやラジオをとおして、好むと好まざるに関わらず、暴露、されてゆくと、不都合が生じる。その不都合を説明することなく、ただ蓋をして覆ってしまう、それが今の日本社会だと、この本を読んで思い知らされた。

 放送禁止、というのがメディアのなかの「呪縛」。これらに類する「呪縛」ってどこの社会にも存在する。なぜかタブーになっていること、なぜか特別扱いになっていること、それはどこにもある。
 この呪縛をどうほどいてゆくのか、これが日本の課題だとおもうのだが・・・・

 それには先ず自立することだろう。今はあまりにも依存しすぎている。


 オール読物6月号  文藝春秋社 目次に戻る
 もうすでに7月号が出ているのに、やっと6月号を読んでいる今日この頃・・・・みなさまいかがお過ごしでしょうか。
 本を読むのは雨の日がいいのですが、今年の雨の日は、何かと御用がある日でして・・・
 オール読物6月号は「歴史小説で描く日本人」がテーマです。

生きのびる<横浜異人街事件帖> 白石一郎
 幕末、長州征伐にでかけた幕府軍のなかで乱心した者が仲間の輪に切りかかり二人に手傷を負わせた。止めようとしたが止められず、切り殺してしまった。その処置は喧嘩両成敗で、切り殺した者に切腹が言い渡された。言い渡された者は不服であるので断った。そうしたら配属を代えられ死ぬ確率の高いところに組替えを命ぜられた。武士は脱走した。
 武士<千田清一郎>は、この事件を「世間のからくり」と断じ、「人は生きのびるために生きる」と考えた。
 そして武士は横浜にかくまわれ、それから・・・・
 というお話。
 
 今の日本は幕末に似ている、と思う。官は自分の保身ばかり、なんとか「まるくおさめる」ことばかりしている。そして民もしくは反対勢力は下品ときている。官は時代の流れについてゆけず、時代の流れは怪しげなところで作られているようで。
 
 そんなことを思ってしまった。それにしても「人は生きのびるために生きる」とはなんとも哀しくそして皮肉なことばだ。

絵具屋の女房 −猪鹿蝶− 丸谷才一
 花札の猪鹿蝶を題とした俳句の話からはじまって「児雷也」の話。「児雷也」の原形は中国にあったんですねえ、って児雷也ってよくわからないんですよ、私。

「函館新選組紀行」 土方歳三、最後の春 中村彰彦
 土方歳三そして新選組終焉の地、函館。
 新選組や土方歳三に関わる地を旅してあるく。
 いいなあ。

 私も函館に行ったとき、ひとりで土方歳三最期之地」を訪ね、「ああ」とため息をついたものでした。

 幕末、新選組がよかったのか悪かったのか、ということより、近藤や土方や沖田などの生き様に惹かれるんですよね。自分のために生きた、というカンジがするんですよ。
 ただ、今のブームみたいなのはちょっと方向が違うんじゃないか、と思うんですけどね。
 今の眼で歴史を談ずることは、ちがうと思うんです。
 
 ああ函館にも行きたいなあ。

平家の封印 高橋直記
 
壇ノ浦の合戦で、源義経は平家を滅ぼした。その時、平家方の公卿に平時忠という者がいてある函を手に自らの保身を図ろうとする。
 その函の中身を巡って・・・、という話。
 面白いっちゃあオモシロイのだが、とうとう最期までよくわからないのだその「函」の中身が。もう一度読み返せば、わかるのかもしれないが、読み返すほどのことでもないし。
 従って別に「函」にこだわって話を進めなくてもよかったんじゃあないか、なんて思ったりして。

性状 神崎京介
 神崎京介という人はこのごろ「官能小説の旗手」ということで、よく名前を見かけるが、ゼンゼン読まなかった。今回初めて読まさせていただきました。(この言い方がヘンだと思うけれど、みんな使っているんだなあ)。
 
 で、どうだったかって?

 官能小説、という定義がよくわからないので、なんなのだけれど「あっそう」っていう印象。
 結局、このようないわゆる中間小説雑誌で書ける範囲ってこれぐらいなんだろうなあ。物足りないといえば物足りないし、この程度でいいんじゃないのって言われれば、そうれもそうだな、って思う。
 私が期待しているような「官能度」ではなかった。が、別のも読んでみようかとは思う。

と知らなんだ58 −じゃがいもの人生行路− 鹿島茂
 じゃがいものお話。アイルランドでじゃがいもは主食となった、ということ。
 雑学の知識が一つ増えた。
 でも、いつまで覚えていられるだろうか、近頃はそっちのほうが心配だ。

鎌倉・流鏑馬神事の殺人 −日本の祭りシリーズ− 西村京太郎
 十津川警部シリーズってすごいなあ。小説新潮でも連載しているし・・・・
 それにしても西村京太郎は「よくもまあ」と思うほど書いている。たいしたもんだ。
 ただ、事件がおきて謎を解いているところまでは、すごい盛り上がるんだけれど、謎を解く段階になると、すごい盛り下がってしまうのは、なんだかテレビのナントカ事件簿みたいでガッカリすることが多い。
 今度は大丈夫?

コドモマチ  角田光代
 小説新潮で初めて読んで、なんとなく注目株なのである、角田光代。
 今回も、面白い小説だった。
 
 小説というのは、主に一つの事件を記録しているとおもうのだが、その終わり方が、推理小説のように「ハイ解決」というものと、「つづく」というカンジでこの後は読者の皆様のご想像で、という形があると思う。

 今回の「コドモマチ」は終わってからも、これからどうなるんだ?、ホントはどうなんだ?という、いい意味での「イライラ感」があって、すごい気になる、というカンジである。

 登場人物は、まあごく普通の人たちの分類に入る人たちで、だからこそ面白いスジで。
 こういう小説ってスキヨ。
 今後も注目していきたい作家である。

御宿かわせみ 代々木野の金魚まつり 平岩弓枝
 いつものメンバーで、いつものように謎解きをする。
 安心して読んでいられる。
 結末はこちらが望んでいる或いは予定している形でおわる。
 事件そのもののどんでん返しはあるけれど、物語は予定調和で終わる。
 
 そしてこれが面白いのだから、読まずにはいられない。
 筆者の術中にどっぷりとはまっていて、そのはまり加減がとっても気持ちがよい。
 
 こういのうもアリなんだよなあ。


 バンコクに惑う・新バンコク探検・バンコク下町暮らし 下川裕治 双葉・新潮文庫 目次に戻る
 バンコクの話である。3冊である。たいしたもんだ、と思う、自分でも。
 バンコクはタイの首都である。

 ♪聴け、バンコクの労働者♪ではないのだ。(あたりまえか)

 昨年、バンコクに行ってきた。初めて。よかった。もう一度来たいと思った。あまつさえ住んでもいいと思った。
 で、帰ってきてから、バンコクの情報を集めた。
 そうしたら、下川裕治がバンコクの話をいっぱい書いていることを知った。
 で、わざわざ、インターネットで購入した。

 バンコク(タイ)はのんびりしているなあ、暖かいなあ、スコールも気持ちいいなあ。
 と、思ったのは旅人だったかららしい。

 筆者は、バンコクの悪口を書いている。それは多分、バンコクにいっぱい裏切られたからであろう。そんなに裏切られても何度もバンコクに行き、家族で住んでしまったりするのは、裏切りが心地よいものだったからだろう。
 なんかヘンな言い方だが、バンコクに期待することが大きくて、その期待をかなえようとしているのを見て、ヨシヨシと思っていると、やっぱりいつものオチがある。それがだんだんいいキモチになってきて、もう心からバンコクを愛してしまった。そういうカンジがつたわってくる。

 筆者言う。「やはりタイに行ったら、タイに従うのが得策だと思う。妙に日本にこだわってしまうとろくなことがない」

 バンコク(タイ)を日本の尺度で測ってはならないのだ。
 なんでも自分の尺度が正しいと思ってはならないのだ。

 尺度というのは、相対的なものなんだろうな。絶対的尺度なんてないのかもしれないなあ。

 この本を読むと、日本は窮屈だなあ、と思う。キュウクツなわりには人と人とのつながりが薄いし。
 日本は、日本らしさを捨てて何かに変わろうとしている、ところが、変わろうとしていることが日本的ななのだ、このへんが、物事を妙にややこしくしているんだと思う。
 つまり建前と本音の使い分けをやめて本音の世界に入ろうと、本気で思っているが、実はそれは自分以外のことであって、私も変わります、というのは建前だったりする。

 こんな日本を離れてバンコクに住むのもいいかもしれない。
 でも、タイ語は相当難しいらしい。そして、住むのも相当難しいらしい。

 満里奈の旅ぶくれ −たわわ台湾− 渡辺満里奈 新潮文庫 目次に戻る
 台湾に行きたくなった。
 
 渡辺満里奈は、おニャンコクラブの一員だった。当時はもう一人の渡辺−−−美奈代がよかったが・・・・・
 満里奈はいい女になった。
 と、この本を読むと思う。

 台湾に興味を持ったのは、中国茶から、ということだ。
 従って、台湾に通い始めは、お茶を飲むことを第1目的としている。それがいい。何かに特化して旅をするというのは、すっきりしている。
 
 満里奈には仲間がいる。
 この仲間たちと、ドンヨクにお茶を飲みあさる。そう「あさる」ということばが適当なほど、お茶、お茶、お茶。なのだ。
 一つのものに凝ると、徐々にステップアップして行く。満里奈もそうだ。いいお茶を飲みたいと思う、更にいいものはないのかと思う。
 そして、いいお茶というのは「葉」だけではないことを知る。
 「葉」そして道具、淹れかたにもよる。それから場所、雰囲気、誰と飲むのか。ということ。
 そうこうしているうちに、台湾、というのが、おいしい中国茶の要素であることに気づく。

 それで、台湾をイロイロ歩く。
 台湾を歩くうちに、おいしい食べ物にも興味をいだき、そちらもついでにいただく。
 物事は、いいほうへ、いいほうへと流れて行く。

 非常に素直に台湾を感じていることがわかる。

 台湾に行きたいなあ。そしてゆっくりお茶を飲んで過ごしたいなあ、と思う。
 それも、満里奈たちと一緒だったら、どんなにかいいかなあ、と思う。

☆ りらく7月号 理楽社  kappo第4号 潟vレスアート  目次に戻る
 どちらの雑誌も、仙台のタウン情報である。
  ただし、大人用である。

 「りらく」は月刊誌。<仙台発 大人の情報誌>である。
 一方「Kappo」は<大人のためのプレミアムマガジン>で、隔月刊である。

 両方の雑誌を見ても、私の生き方に大きな影響はない。

 りらく、ではときどき私の行きたい店がある。そして、何軒か行ってみた。それから、一回読者プレゼントに当選して、仙台フィルの定期演奏会を聴きにいった。
 こちらのほうは、大人の情報誌ではあるが、まあ割りとリーズナブルな店を紹介している。

 今月号は
 
*特集 地酒が旨い 近隣の小蔵のとっておき
 *自宅レストラン&カフェで過ごす至福のひととき

 である。
 どちらも、眺めて、こんなところもあるのか、というカンジ。
 そのほかの記事は、ナナメ読み。インフォメーションで私の好みのナニカをしていないか探す。
 おおよそ15分で読了。

 Kappoは、プレミアムマガジン、というだけあって、高価な宿や店を紹介している。
 今回の特集は
 
海の見える温泉宿 <北海道・青森・秋田・山形・新潟・茨城>
 味わい深き寿司と料理

 である。

 こちらは写真が主であるので、文字はあまり読まずに、いいなあ、とおもいながら眺めるだけ。
 そのほかには「鶴岡・酒田・象潟の旅」がこの間いってきたので、おもしろく眺めた。
 そして東北のお祭りがちょこちょこっと紹介されていて、今年は秋田の「西馬音内盆踊り」を見に行こうかと思った。
 こちらも、ダイタイ15分。

 こういう情報誌は、毎月、毎回役に立つわけでなく、まあ心のやすらぎ、というか、へえー、というか、一度は行ってみたいなというか、でもオレにはあわないかな、なんてことを、漠然と考えながら、過ごすときにはいいものだ。

 それと、写真とか、レイアウトはなかなか参考になるのだ。
 




 ローマ人の物語3・4・5 塩野 七生  新潮文庫  目次に戻る 
    
ハンニバル戦記 上・中・下
 「ハンニバル」というものがアルというのは知っていた、が、ハンニバルとはなんなのかということは知らなかった。
 
 トマス・ハリスの「ハンニバル」はレクター博士が「カンニバル(cannibal)」(=人食い)というのとかけているらしいとは思うのだが、それにしてもどこかハンニバルと関係があるんだろうな、と思っていた。

 何度も言うようだが、外国のものを読むときは、その背景にある歴史や文化を知らないと、よく理解できないところがある。
 多分、日本のものを外国に紹介(翻訳)する場合もそうだと思う。例えば「判官びいき」とかというのは、源義経の話を知らないと理解できないわけで・・・・

 そういうことから、少しは西洋史について知っておくべきかなあ、と思ったのが、この塩野七生のシリーズを読もうとするきっかけだったし何よりこの3.4.5巻の「ハンニバル戦記」について興味を魅かれたのが原因でもあったのだ。
 この3巻は約4日で読み終えたから、充分面白い、引き込まれる部分があった。

 但し、読物に惹かれるというのは、多分にそのときの心理状況によるので、今、でなければそんなことにならなかったかもしれない。その辺が「出会い」というか「運命」なのではないのか、なんて思っているのだけれど。
 そして、いつの日か読み返したりすると、いよいよその読物と自分の距離が近づいたりするのだ。

 話がずれてしまった。

 ハンニバルというのは、カルタゴという国の名将・知将・勇将である。
 時は紀元前260年から150年ころまでの100年間。
 ローマという共和国が、徐々に周囲へ影響を与えて大きくなってゆくころ。
 今のイタリアと地中海を挟んで、というか、シチリア島を挟んでカルタゴという大きな国があった。
 このカルタゴとの闘いが約100年間断続的にあった。いわゆる「ポエニ戦争(戦役)」である。

 このポエニ戦役でもっとも果敢な闘いをしたのが「ハンニバル」である。
 彼は、祖国カルタゴ(アフリカ)からスペインに渡り、そしてフランス、そして有名なアルプス越えをして、イタリアに入り、ローマそのものの解体を図ろうとしたのだ。

 ハンニバルはカルタゴの将軍である。この将軍に、ローマ(共和国)は執政官を共同で任命して立ち向かわせる、兵士は国民と同盟国、属州の民たちである。
 ローマはハンニバルに負け続けるが、兵士たちの意識=国を守るんだ、という気持ちが最後の一線となって踏みとどまる。

 この物語はハンニバルを英雄として描いた賛辞、或いはローマが一丸となって外敵に立ち向かい、最後には勝利を収めた、やっぱり人の和というのは強いんだというような結論、そんなものではない。
 何が正しくて何が邪なのかなどという問いかけでもない。
 強いて言えば、人というのは複雑、多様なものなんだなあ、物事というのは理屈だけではないんだなあ、という、詠嘆、である。

 塩野七生は言う
「プロセスという歴史は愉しむものである」
 我々は、歴史を原因と結果だけをとらえて判断するが、歴史はプロセス(過程)なのであって、たまたまその結果となっただけであって、振り返ってみたときには、その結果が正か邪かを判断できるが、そのときには必然ではないのか、というのが筆者の考え方である。

 いわば、プロ野球解説者が「あの場合はこうでしたね」というのは結果から判断したものであって、実際にプレイしている身にとってはそのときの最善だった、例えミスしても最善だった、ということである。

 歴史を今の定規で測って断罪するのは無効である。と思う。

 この物語を読んで、イロイロ考えさせられたが、個人の力というのは限りがあり、人々の力の和というのが必ずしも正義ではなく、人の営みというのは「生きる」ということだけに集中している「快楽」に向けて志向しているときのほうが、幸福なのではあるまいか、なんて思ったりした。

 生き方や生きる証や生きた証、なんてのを考え始めると、苦悩がはじまるのではないか。

 つまり、そんなものは別の誰かに考えさせ、自分は「生きること」を手伝う「物」の量や質が他人と比較してどうなっているかについて不平不満を洩らしつつ「まあまあ」で生きたほうが、ずっと「ラク」なのかもしれない。

 だから、ローマは皆で考えるという共和制をその後捨てて、誰かに自分のことまでを考えさせる「帝政」へ移行したのかもしれない。

 そして東洋では、最初から「生き方」や「生きる証」を自分では考えずに、誰かに考えさせることとして、そして、その誰かが失敗したら次の者が出てくるまで待っている、決して自分からは行動を起こさない。従って共和制や自治というのが「民」の間から生まれなかったのかもしれない。
 そんなことを思ったりした。

 ローマとカルタゴが講和したとき、その講和条件は厳しかったが苛酷ではなかった、という記述があり、この時代の戦争は勝者と敗者があるだけで、正義が非正義に対する懲らしめではなかった、と筆者言う。
 
「戦争という、人類がどうしても超脱することのできない悪業を、勝者と敗者ではなく、正義と非正義に分けはじめたのはいつ頃からであろう。分けたからといって、戦争が消滅したわけでもないのだが」

 
自治や民主制というのは、議論と手続きで面倒なものである。面倒なことを単純にするには、誰かに権限を与えて、統治してもらえばいい。つまり統治するほうは「政治的外交的軍事的自由は制限されるだろうが、秩序と安全は保証する」のである。
 しかし、自由が欲しいのであれば、全て自らが考え実行しなければならないのである。

 そのどちらがいいのか、筆者は
「人類は、スキピオの時代から2200年も過ぎていながら、いまだにこの両者の考えの正否に結論が出せないでいる」
 という。

 ローマの元老院はあるとき、金や物資を提供した国が「我々は戦争に協力した」といったとき、一斉に嘲笑したという。
「血を流さずにいたのは、協力ではない」ということだ。

 今の日本の在り方を考えたとき「金銭」だけが物事の尺度になりすぎてはいないだろうか。
 「痛み」ということではなく、自治や民主制というのは「血」を求めるということを、西洋人はすでに遺伝子に組み込まれているのかもしれない。
 とすると、今、我々が考えている地方自治の確立というのは、そのあたりまで考えないと、実質的には「統治」になるのかもしれない。
 強いリーダーの出現を待ち望んでいてはダメなのかもしれない。

 ちょっと、考え込まされた数日間であった。
 ハンニバルという英雄を知ろうとしたが、その目的を外れたものだった。しかし、それはいいハズレだった。


 ガセネッタ&シモネッタ 米原 万里  文春文庫  目次に戻る 
 米原万里は、ロシア語通訳の第一人者。
 通訳稼業の中でおきた、オモシロイこと、ハプニング、そして考えたこと、が、「不実な美女か貞淑な醜女」「魔女の一ダース」「ロシアは今日も荒れ模様」といった、既刊の文庫で紹介されていて、それはそれは面白かった、ので、今回も購入。
 
 ガセネッタ&シモネッタとは、がせネタ、と、しもネタをもじったものであることはわかりますが、米原万里さんのことではないらしい。
 彼女の、通訳仲間らしいのだが、米原さんは充分シモネッタを名乗る価値がある。

 何故通訳たちは、ガセネッタやシモネッタになってしまうのか、それは「スピーカー」つまり通訳をしようとするのにあたっての話し手が、意識しないうちに、ガセやシモのネタを発するかららしい。
 スピーカーたちが何気なく発することば、しかも眉つばものらしいものやシモのネタのものは、通訳することが難しいらしい。
 それを「ナニクワヌ顔」で訳すことができないと、通訳と名乗ることはナカナカらしい。

 通訳というのは、言ったことをそのまま訳したって、意味が通じなければ何にもならない。
 たとえば「他人のふんどしで相撲をとる」というのは、外国語に直訳しても意味は通じない。
 この逆もあるんだろう。

 ということは、通訳とは「ことば」を知っているだけではダメということ。
 双方の文化、或いは両者の知識力を知っていないと、意味が通じないということなのである。

 日本は国際化してきているとはいえ、まだまだ日本の中だけの約束事が多くて、それをそのまま他の国に理解してもらうことは難しい。
 
 このことは「日本」ということだけでなく、地域や家族や個人、にもいえることであって、それを理解してもらうにはそれなりの努力が必要である。
 例えば、行政と住民の間、企業と消費者の間、僕とあなたの間には、そして男と女の間には暗くて深い河がある、その間を取り持つのが「ことば」であって、言葉というのは共通でなければならない。

 ところが、日本語をつかう間にあっても誤解や理解不足が生じる。日本語間でも通訳が欲しい。
 いわんや外国語と日本語では・・・・・・

 通訳とはすごく難しいことだと、しかし、難しいことだから「やりがい」がある。
 「ことば」と「ことば」だけでなく「文化」や「歴史」そして「感情」などのモロモロのことの「かけはし」なんだと、米原さんはいっているような気がする。

 このことの原点には「相手を理解しよう」という気持ちがあるからなのだろう。

 つまり、理解をしようという気がないと、言葉を尽くしても、礼を尽くしてもダメなのかもしれない。
 
 近年、日本では「相手を理解をしよう」という気持ちより、「自分を理解させよう」というほうになって、これが多くの誤解を生んでいるような気がする。

 僕がアナタを好きだということを何故わからないの、という気持ちだけが前に出てきて、何故彼女は僕をすきにならないのか、という気持ちにならない。

 こんなときに、米原さんのような、機転の利く、双方を思いやる、通訳がいてくれれば、と思うのだけれど。

 もっとも、通訳をしてもらう前に「あなたあきらめなさい」といわれるような気もするけれど。


 禿鷹の夜 逢坂 剛  文春文庫  目次に戻る 
  別冊文芸春秋に連載の、パートVが終了したのと同時に、文庫本でパートTがでる。
  こういう、運命的出会いに弱いんだなあ。
  運命的といっても、アナタ、それは文藝春秋社の戦略じゃないの。
  という人もいるだろう。
  それは認める。
  でも、パートVを面白く読んでいたから、こその、出会いなんじゃないの。
  と、ワタクシは言いたい。

 そんなことはどうでもいいのだけれど・・・・

  史上最悪の刑事・禿富鷹秋(とくとみ たかあき)が主人公なのだ。
  それでもパートTでは、恋人もいたりして、それに貢いだりして、結構、カワイイところもあるのだ。

  この物語を読んでいて、スゴイと思ったことは、人がよく死ぬ、けれど、そんなことに構っていられない、ってこと。
  他人の死って、やっぱ、他人事、なのかもしれない。
  そして、これ、ちょっと自分でもいいのかなあ、とおもうのだが。
  死んだものたちは、全て殺されたのだけれど、一人を除いて、ゼンゼン同情しない、ってこと。
  「いいよ、コイツ、殺されたって」
  と思ってしまうのだ。

 心ややさしい人間、だと、自分で自分を評価していたのに・・・・なんか、残酷な人間なんだね、ってカンジ。

  それだけ、この物語に登場するものたちは「悪」なのかもしれない。
  パートVになると「善人」なんて一人もいないという状況になるが、「善人」ってなんだ?「悪人」ってなんだ?と思わされる。

 結局「人」って自分が一番だよなあ、それをどうコントロールするのかが「人間」なんだよなあ、人から人間になるには、相当の努力が欲しいんじゃないの、そして、人のままで生きようとするのも、それはそれなりに厳しいものがあるよなあ、なんて、考えたりもするのだ。

 ホント、これだけ、メチャクチャにするのも大変だろうと思う。

 以前から出ていたのに、この時期に、禿鷹とであったのも、ナニカの運命。
 彼の生き様をしっかり見ていこうと思うのだか・・・・

 ちなみに、解説によれば、著者はこの主人公に「共感や思い入れは持っていない」と答えたそうだ。
 ワタシもそうだけれど「憧れ」はあるな。
 今の自分とは違ったところで、ふたつ目の自分が作れるとしたら、こんなふうに、徹底した人間になるのも悪くない。


 最良の日、最悪の日人生は51からA 小林 信彦  文春文庫  目次に戻る 
  1998年12月から1999年12月まで、週刊文春に連載したエッセイ集。
 
  何度も言うようだが、小林信彦と私はウマがあう。
  といっても、こっち側からの一方的な思い込みなのだけれど。

  実は、この本の中に書いてある昔話(映画や演芸、ラジオ・テレビ、町など)を、ほとんど知ってはいないのだ。又、現在の事柄につい ても、小林信彦とリアルタイムで共有してもいない。
  そして、この本を読んだからといって、それらのものを追認してみようとは思わない。

  それなのにどうして?
  と、自分自身でも思う。
  でも、小林信彦の書くエッセイを読むと、すごく納得してしまう。
  この現象を、深く追求する必要があるだろうか?
  ウマがあう。
  ということでいいじゃないか。

  さて、このエッセイは、今の日本を、時には昔と比較し、時には自分の感性と照らし合わせ、現している。
  日本はコレでいいのか、日本はこれからどうなるのか。
  大上段に構えて論じているのではないのですが、心にしみる。

  生活が豊かになったからといって、心が豊かになるのだろうか。
  「愛」に普遍性がなくなったのではないか。

  そんなことを思う。

  それにしても小林さんは昭和7年生まれ。
  なのに中谷美紀を気にかけ、女子アナをまな板にのせ、釈由美子、菅野美穂、ともさかりえを論じる。
  この辺が、スゴイと思うのだ。
  そして、そのあたりに、同じような匂いを感じたりするのだ。


 酒と家庭は読書の敵だ 目黒 考二  角川文庫  目次に戻る 
 私もそう思います。
 読書の敵は多いのです。
 酒と家庭のほかに、思いつくままに述べてみると、仕事、友人、テレビ、映画、食事、風呂、地震、雷、火事、親父、ってところかな。
 では、読書の味方は、トイレ、寝床、一人旅の列車、病院の待合室、夜中、雨・・・・なんだか淋しくなるな。

 目黒さんはホント読書人です。
 あたるを幸いというカンジで、読んでいます。すごいっす。
 でも、私とはあんまりあわないんですよ。読書の傾向が。

 それでも、目黒さんの書いたものを読みたくなるのは、とにかく本が好き、というところですよ。
 しかし、この本好きの性格は微妙に違うと、解説で坪内祐三さんが書いている。
 たしかにそうだが、本好きの人たちとナカナカお友達になれないのだから、微妙に違っていても、親近感があるのだ。
 
 なぜ本好きの人たちがナカナカお友達になれないのか、本についてのべつくましに話し合うことができる友は読書の敵だからなのだ。

 目黒さんは「現代は目的読書」の時代だという。何かを得るために読書をしている、という。
 そうだなあと思う。
 私などは、自分の好きなものだけを読もうとしているが、アレを読まなくては、コレも読まないと、というものが多すぎて、ホント毒にも薬にもならないものを読むことが、ナカナカゆるされなくなった。
 
 何のために本を読むの?
 無人島にもって行く一冊は?

 なんて質問は受付けたくないのだ、考えたくもないのだ。
 できるなら、大きな書店の端っこの本棚の前にゴザでもひいて、寝っころがって、本をずっと読んでいたいくらいなのだ。あたりを本に囲まれて本を読み、ときどき、本棚を眺めては、今度はアレだな、なんて鋭く目を光らせる。
 ンー、ア・コ・ガ・レ。

 この本を読んで思ったのは「好きな本だけを読んでいればいいんだ」ということ。
 全ての本を読むということや、無理をしても読まなければならない、ということは読書ではないんだということ。

 コレって、ナニカに対するイイワケにしようと思ってる?おれって。


 決定版 私説コメディアン史 澤田 隆治  ちくま文庫  目次に戻る 
 澤田隆治は1933年(昭和8年)生まれで、ラジオ、テレビのディレクターやプロデューサーをつとめた。
 代表作は「てなもんや三度笠」「」スチャラカ社員」、そして「新婚さんいらっしゃい」「ズームイン朝」「花王名人劇場」など

 この私説コメディアン史は昭和49年から雑誌連載したものを52年に一冊の本となり、その後平成5年に「定本」として加筆して再版、そして今度は「決定版」として今年「ちくま文庫」からでたもの。
 
 なぜ、こんなことを書いたかというと、著者としてはその時点ということで書いたものだろうけれど、今でも充分通用する、ということを言いたかったからだ。歳月に左右されることのない著作物であるということだ。

 このての、いわゆる「芸能モノ」はよく好きで読んでいた。色川武大、小林信彦、矢野誠一などが書いたものを読んで、戦前の昭和から現代までの、いわゆる「喜劇人」「コメディアン」について知っていたつもりだった。

 この本は、意表をつく出だし「森川信」から始まっている。森川信がすごい喜劇人だったとは始めて知った。
 そのほか、ルーキー新一、藤田まことや南利明など、ナツカシの人たちがでてくる。
 ちょうど、このあたりからリアルタイムで見た人たちだ。但し、テレビだけれど・・・・。というのは、どうも、喜劇は舞台がやっぱりいいらしいのだ。
 今でも、藤山直美なんかの舞台や、吉本新喜劇でも観てみたいとおもっているのだが、何しろ、ここにいてはナカナカ・・・・

 東京へ行ったときにはできるかぎり、寄席に行くようにしているが、ナカナカ舞台までは・・・・

 なので、こういう本を読んで想像するしかないのだが。

 この本に出てくる喜劇人たちは、ホントに苦労している。そして、人間関係特に師匠と弟子の関係は人情味があふれている。
 日本のよき人間関係が現れている。

 人間関係が濃い時代から今のようにクールな時代になって、なんだかいいのか悪いのか、という気がする。
 一つだけいえるのは、あまりにも薄くなるのが早すぎたのではないか、ということ。
 これって、物質の氾濫と比例しているのだろうか。
 
 手作りの舞台や映画から、テレビの時代になって、しかも、録画という手法が主流になって、もっと時間をかけていいものを、という方向ではなく、手軽にたくさんという方向にいったことが、人間関係の希薄さを生んだのではないか。

 一生懸命生きてきたことをバックに、何かを表現するということは、それがばかばかしいギャグであったとしても、すさまじさをもって人を打つ。
 そんなことが、書いてあります。

 人ってすごいなあ。
 

 僕の昭和歌謡史 泉麻人  講談社文庫    目次に戻る 
 
  泉麻人は、同級生である、というのも変だ、同い年である、というのが正解か。
  従って、同じ時代を過ごしてきている、ので、ほぼこの本に出てくる「歌」は知っている。

  しかし、その歌にまつわる話はゼンゼン違う。東京育ちと、田舎育ちの違いがはっきりとわかる。
  今の時代では、住むところによってそんなに違いはないだろうが、昭和31年生まれでは、東京と田舎ではゼンゼンだ。
  「僕は」なんて恥ずかしくて、「半ズボン」も恥ずかしくて、という10代だったのだ。

  泉麻人が語る歌謡曲は、歌っている人が身近にいる。
  歌と現実が近いのだ。

  オラは歌謡曲の世界も、歌っている人も、現実世界とは全くかけ離れていた。
  おんなじ歌を聴いてもこんなにちがうんだろうか、と思うくらい、泉とオラではちがう。

  歌の話を読んでいると、歌そのものより、泉の生活ぶりがうらやましくなってくる。
  彼の、ハイソで都会的な生き様を、オラの田舎生活と比べると、同い年なのに「なんだかなあ」という、「あれあれな気分」になってしまった。

  とは言うものの、やっぱり同い年。
  そうなんだよなあ、というものも多い。

  オラ達の時代の歌って、国民全部が知っている、という時代から、マニアの世界へ移って行く過程のものみたいのようだ。
  ここに取り上げられている以降は、もう、国民的な歌というものではなくなった。

  今、100万枚単位で売れている歌は、オラはもう知らない。
  さびしい。
 

海を越えた挑戦者たち ロバート・ホワイティング  角川文庫  目次に戻る 
 
  著者は「菊とバット」「和をもって日本となす」を書いている。
  本著は1999年に単行本として出ている。当時から話題の本であったように記憶している。
  彼は、野球を通じて日米の文化を比較している。本著もその流れの中にある。

  この本の隠れた主人公は「団野村」である。日本の野球界では悪名の高い人物である。私も、この本を読むまでは、いけすかない奴、だと思っていた。
  しかし、この本を読むと、いけすかないのは、日本の野球人たちイコール日本人であった。
 
  国際化なんてずっと前から言われているが、実はゼンゼン国際化しようとは誰も本気で考えていないのではないか?

  日本は単一民族で、長い間鎖国をしていて、そして日本固有の文化があり、身分制度もないようにしてある。
  平等とか公平とかいうけれど、実はみんな自分だけ特別扱いをしてもらいたいと考えている。だけど、それは公然としてはならない。コミュニティの中での暗黙の了解があって、特別扱いを認めてもらうことになっている。
  その手続きを踏まないものは、掟破りとなり、村八分にされる。

  野茂も伊良部もそうなったのだ。
 
  この様な日本なのだ。
  だから日本人が、他の民族や国と付き合うということは大変なことなのだな。

  習慣や掟が違うコミュニティ(民族だったり国だったり)とつきあうには「明確な契約」を媒介とする。
  契約の世界では、阿吽の呼吸は通じない。

  その契約を日本の野球界に持ち込もうとしたのが、団野村である。
  しかし、日本の野球界、イヤ日本は「契約」より「日本の掟」を重視した。

  日本の掟は、野茂の活躍によって変わる。

  いったい日本とはなんなのだろう。
  国際化する、ということは、日本の掟を変える、か、破棄するかということだ。

  どうするんだ、日本。
 

モンテ・クリスト伯:全7巻アレクサンドル・デュマ 岩波文庫 目次に戻る 
 
  きっかけは、テレビだった。
  俳優の児玉清と学習院大学教授の篠沢秀夫(昔この人に似ていると言われたことがあった)が、フランス文学を旅する、というやつで、このモンテ・クリスト伯とレ・ミゼラブルの舞台となったフランスの町を紹介していた。
  レ・ミゼラブルについて現実風景を知りたくて見たのだが、モンテ・クリスト伯に関わるところもよかった。

  ので、先ず一巻を買ってみた。面白くなかったらあとはやめるつもりだった。
  というのは、昔「巌窟王」という少年少女用のものを読んだことがあり、悲惨というイメージがあったからだ。

  第一巻の途中まではあまり面白くない。これは、こういう長篇モノの特徴だから、仕方なく読んでいた。
  そして物語が動き出すと、突然面白くなってくる。

  物語は、エドモン・ダンテスが、卑怯な罠に陥り、牢獄に入れられる、その直前の幸福なところから始まる。
  この幸福をねたむものたちがダンテスを貶める。
  舞台の背景は、ナポレオンが失脚し又戻るところであり、王朝派とナポレオン派の争いが盛んな頃。この争いにうまく巻き込んで、ダンテスを牢獄に送った。一人は女をめぐって、一人は金をめぐって。
  そして、不正な裁判。

  ダンテスは、牢獄の中で無実を訴えるが聞き届けられるはずがなく、あきらめ気分でいるところでであったのが、隣の牢獄にいるファリア司祭である。この司祭と出会ったところあたりから物語が動き出す。
  二人はそれぞれの獄を結ぶ穴を穿ち、行き来し、ダンテスは司祭からさまざま教養を授かる。ちょうど「おしん」が「俊作あんちゃん」からイロイロなことを教えられたように。
  そして二人は脱獄の準備をして脱獄を図ろうとしたが・・・・・

  結局、ダンテスは司祭の死によって脱獄ができる。そして、司祭から莫大な黄金と宝物のありかを教えられて。

  牢をでたダンテスは、モンテ・クリスト伯と名乗り、莫大な財産を背景として、自分を貶めた三人の男たちに復讐を開始する。
 
  この、復讐は恐ろしく手が込んでいて、そして完膚なきまで徹底している。
  凄まじいものである。

  しかし、ダンテスは、復讐が成就しても、心から満足することができない。

  人の心とは、いったいなんなのだろう。愛とは、神とはなにか、ということを考えさせられる。
  そして、復讐の凄まじさと、その計画性、そして意外な人物のつながり、長篇小説なのに、広い世界を舞台としているのに人としてのつながりの狭さ。
  普遍的な人性がそこにいるので、名作として、今でも人を感動させることができるのだなあ、と、改めて感心した。

  それにしても、登場人物の名前を覚えるのに一苦労した。

  いつか、フランスに行って、レ・ミゼラブルとモンテ・クリスト伯の舞台の風景を観てみたい。
  その前に「ダルタニャン物語」を読もうか。

  このような名作は、できるだけ若い時代に読んでおくべきだった、と今更ながらに反省。
  是非、若い人たちには古典の名作を読んでもらいたい。(うーん年寄りっぽいなあ)
  自分でも世界が広がったカンジだから。

   

 ローマ人の物語 1・2  塩野七生 双葉文庫 目次に戻る 
    ローマは一日にして成らず(上・下)
 
  とうとう、西洋史に取り組んでしまった。
  この本が文庫化になったとき、どうしようかなあ、と迷いに迷っていた。
 
  レ・ミゼラブルを読んだとき、よくわからない部分があった。それは西洋史を理解していないとわからない、「常識」であったり「例え」であったりするものらしく、いつかはなあ、と漠然と欲求はあった。

 そして、モンテクリスト伯を読もう、としたとき、だったら並行して読んでみようかなあ、なんて、気楽な気持ちでとっかかったのだ。

 日本史ものは大体読んだ。中国史もまあ読んだ。しかし、西洋史は「少年少女名作文学」でチラチラと、あとは漫画聖書物語、とか、漫画のダンテ神曲ぐらいで、食わず嫌いではあったのだ。
 というのは、翻訳ものが、なんだかよくわからない日本語であって、理解不能だったからなのだ。

 今回のものは、日本人が著者であるということから、その辺はある程度改善されている。しかし、カタカナの名前は覚えられない。

 さて物語は紀元前753年にローマが誕生したことから始まる。(それ以前の話もあるけれど)
 ローマは建国当初は「王制」それから「共和制」になる。
 もっとも「王制」といってもその後の「王制」とは違い、一家や一族のような「世襲制」ではなく、リーダーが選ばれそのリーダーに独裁権を与える、といった形で、終身制ということぐらいが王制のようで、我々が認識している王制ではない。

 紀元前500年には共和制になる。
 このころ、中国では「孔子」がいる。日本はまだ縄文時代、神代の時代である。

 西洋における共和制、というか、自治の歴史は日本が形をなす前に始まっている。
 そして、日本は、ずっと「王制」であったが、西洋では「自治」があった。
 日本で自治という概念ができたのはついこの間だから、なんかヘンなんだなあ、なんて、統一地方選挙の、選挙カーから流れる「おねがいします」を聴きながら思った。

 それと、自治における「平等」というのは、今は「権利」のようだが、実は「義務」なのではないか、とこの本を読んでいて考えた。
 
 法のもとの平等、とか、ナントカの自由の保障とか、ナンタラの権利の保障とか、がいつも言われているようだけれど、実は自治において、或いは民主主義において最も平等でなければならないのは「義務」なんではないか、と、ローマの話を読んでいると思う。

 現在、文庫は7巻出ている。じっくりと読んでいこうと思う。 

   

 
 坊ちゃんの時代 関川夏央・谷口ジロー 双葉文庫 目次に戻る 
 
  作者(関川)の解説によれば、本書の第1部はは1985年に構想し、1986年12月から週間漫画アクションに連載された。ということで初出から本年で17年経過したことになる。
  その後、12年の歳月をかけ1987年完了した。

  先ず、こういう継続に意味なく感動をしてしまう。12年間も共同作業をするということに感心してしまう。
 
  今回、初めて通して読んだのだけれど、多分、途切れ途切れに部分・部分を読んでいたと思う。違和感なく、全5巻を読み通せた。
  アッ!この本は、関川夏央の原作、谷口ジローの画、で、漫画です。

  第1部  「坊ちゃん」の時代
  第2部 秋の舞姫
  第3部 かの蒼空に
  第4部 明治流星雨
  第5部 不機嫌亭漱石

  となっており、夏目漱石を縦糸にして、森鴎外、二葉亭四迷、樋口一葉、石川啄木が絡んで、明治の時代を描いたもの、というのがホントに簡単な概略。

  明治時代というのは、日本の「青春」だった。
  明るい未来があり、目指すべき、或いは追い抜くべき目標があった。
  その目標が正しいとか間違っているとかではなく、あのレベルに到達するんだという形だけを、強く意識した。
  そういう時代だった。
  というのが、本書を読んだ感想。

  だけど、そのことに(いわゆる西洋に追いつけ追い越せ)ということを頭で理解していても、生理的に受け付けられない、日本人としての血があった。
  その部分を、明治の2大文豪、夏目漱石、森鴎外が感じ、悩み、書いた。ということではないか。

  青春時代は、未来は輝き、正と邪が明らかであり、進むべき道は多く広く長い。
  だけど、青春時代は短い、諦めなければならないモノ、妥協しなければならないモノ、がゾクゾク現れる。それは、他のものとではなく、自らの心の中で始末しなければならないから、やるせない。

  明治後期の日本は「ヤルセナサ」が漂っているようだ。
  戦争には勝った、しかし、実力かどうかはわからない。
  と思っていれば
 「絶対実力だ!」という者もいる、「もともと強いのだ!」という者もいる、「世界一である」という者も出てくる。
 で、とうとう、なんとなく、青春時代を卒業すべく、妥結してしまった。

  そして破滅へ向かう。

  夏目漱石や森鴎外は、自分の本質と時代がそぐわないことを知っていて苦しみ、なんとか打開しようとした、それは苦しみと共に文学に昇華した、と思う。
  石川啄木は、自分の本質すらわからず、時代ともあわず、それでも自分への矜持だけ持ちつづけ、結局自分の本質と時代の食い違いから自家中毒をおこしたようにして、才能を顕かにすることなく逝った。
  もっとも、あの借金癖では、生きている間は誰も手を貸さなかっただろう。いなくなったから、安心して人に紹介できたのだろうけど。

  この本を読んでいて、特に石川啄木に自分が投影された。
  あのいい加減な性格が、身につまされた。ああ、自分もこういう風なんだよな、と思った。

  それにしても、当時、いや昭和中期頃まで、日本人は大人になるのが早かった。
  モラルも思想もしっかりしていた。

  近頃の日本人は、情報の氾濫の中で、自家中毒を起こし、大人になることを止めてしまったのではないだろうか。
  それは、青春時代に、深く悩まずに、いい加減なところで社会と妥結したことにあるのではないのか。

  とすれば、それは、明治以降の日本と同様に破滅へむかうことになるのではないか。

  そんなことを考えながら、この本を読み終わった。
 

 巨人軍に葬られた男たち 織田淳太郎 文春文庫 目次に戻る 
 
  言っとくけど、俺、アンチ「巨人軍」(ジャイアンツ)だからね。
  これは非常に厳しい環境にいるということである。ジャイアンツが負けて喜んでいると、時として「殺意」を感じることがある。

  何故、ジャイアンツが嫌いなのか?
  小学生の頃、中日がカッコよかった。水原茂が監督で。それから小川健太郎というアンダーハンドの投手に憧れた。王に向って背面投げというのをやったりした。
  ということもあったが、一番の要因は「みんなが好きだから、ボク嫌い」という天邪鬼な性格にある思う。

  さて、その巨人軍のなかでも、あの正力松太郎の遺訓というのが気に入らない。
   巨人軍は常に強くあれ
   巨人軍は紳士たれ
   巨人軍はアメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ

 この遺訓が巨人軍の大きな足かせになっている。
 本書は、 この足かせによって、葬られた男たちを描いたノンフィクションである。
 主題は「湯口敏彦」の死である。

 遺訓は、組織への「忠誠」を強く求めている。
 当たり前のことばといえば当たり前だが、なんかエリート意識そのものではないか?
 遺訓の巨人軍を「財務省(大蔵省)」に置き換えると、そのイヤラシサがわかる。

 そしてこの遺訓は、都合のいいときに都合のいいように使われる。
 強くあらねばならないために、紳士を置き去りにする。
 だれもが巨人を好きだと思っている。
 
 渡辺恒雄さんは紳士か?
 あったことは無いけれど、テレビ等で拝見する限り「傍若無人」だし、なにより「下品」だ。

 本書に書かれてあることは、大なり小なり、組織においてあることだと思う。
 決して巨人軍だけの問題ではないが、巨人軍には明確に現れていることだ。
 古臭い「組織優先」「組織のコミュニティ優先」の考え方が巨人軍を貫いている。
 なにより、誰がどこまで責任を持つのかが明確でない。

 昨今、企業において噴出している問題は、このことである。「組織のために」という忠誠のために、社会全体に大きな悪影響を与えていることに気づかない。
 お金で選手を集めたチームが常勝するのは当たり前だ。戦力比較の前に、他のチームの選手たちのやる気を無くさせている。それが戦略といえばそうだろが、その結果、野球を見なくなった人たちが多くなったではないか。
 組織のために良かれと思ってしたことが、結局は組織を壊滅させることになる。

 プロ野球は近頃面白くなくなった。
 それは、野球以外の話が多くなりすぎたからだと思う。プロ野球は野球を見せることにある。勝敗だけでない感動がある。敗者への賞賛がある。それを忘れている。
 とおもうのだ。

 アンチジャイアンツだから興味深く読めたのではない、一時代前の日本を支配していた考え方を、如実に表している例だと思ったから、一層興味深かったのである。

 

 高峰秀子の捨てられない荷物 斎藤明美 文春文庫 目次に戻る 
 
 高峰秀子に興味を持ったのは、オール読物に随筆の連載をしていた頃。
 歯切れのいい文章と、語られている内容が清々しく潔い。

 高峰秀子という人が女優にいるということは知っていた。いわゆる「美人」だとは思わなかったが、知的なカンジの人だなあという印象。
 勿論、彼女の映画をリアルタイムで見ることもなく、ビデオで二十四の瞳を見たぐらいで、大女優とかアイドルだった時代は知らない。

 だから、随筆という形でリアルタイムで高峰秀子を知ったといえる。
 その後、自伝とも言える「わたしの渡世日記」を読み、その前半生は「凄惨」だったことを知り、その凄惨さの度合いに反比例したかのような清冽な「生き方」に「よくもまあ」という感想を持ち憧れ、以後本を見つけるたびに購入してきた。

 今回の本は、文庫の帯によれば
「自伝<私の渡世日記>以後辿った苦難の道と到達した清冽な境地を描く評伝」となっている。
 著者は、編集者として高峰秀子と知り合い、著者の母の死を経て、高峰秀子を「かあちゃん」と呼び、松山善三を「とうちゃん」と呼び、二人と深く関わり、インタビューをし、資料を探る。
 そこから、見える、高峰秀子は、やはり素晴らしい。そして夫・松山善三も。
 著者は1956年生まれであるから、私と同い年、従って女優・高峰秀子をリアルタイムでは知らない。

 著者と出会う前も出会ってからも、この夫婦は何一つ変わっていない。変わったのは筆者である。筆者の気持ちが心根が変わってゆくのが良くわかる。

 二人には「揺らぎのない穏やかな心の芯」がある。
 そして、何より「品」がある。
 城山三郎の小説に「粗にして野だが卑ではない」というのがあったが、まさにこの夫婦は、どんな場合であっても「卑」ではない。ものすごい上質の「品」がある。
 
 今、テレビを見ていても、頻繁に出てくる人たちの「底」や「幅」が見える。
 作っている人たちの「卑しさ」が窺える。

 一度でいいから、高峰秀子や松山善三を見て、声を聴きたいと思う。
 ただし、多くの人たちにまぎれてだ。一人では、こちらを見抜かれそうでコワイ。
 
 華やかな女優としての姿、家庭状況は凄惨、心根はまっすぐ、一晩で読了してしまった。
 

 コラムは誘う 小林信彦 新潮文庫 目次に戻る 
 
  昭和史の謎を追っている本を読み日本の民主主義を考えているのもいいが、小林信彦のエッセイを読んで個人的な感慨に耽るのもい い、と思っている。(なんかカッコイイ)
  人はバランスなんだよなあ、と思う。(私てんびん座)

  さて、小林信彦のこのエッセイは1995年から98年まで中日新聞に連載されたもの。
  ゆえに、時代の流れの中で書かれたもの。
  「芸」というものを視点の中心に置いて、社会を観察している。
  その芸も自分の好みだけである。
  それでいて普遍的なのがスゴイ。

  文庫の帯には「渥美清が逝った やすしが逝った そして、小林信彦はこんなことを考えていた」とある。
  小林信彦が考えていたことを知りたい、というのが私の欲求。
  なぜなのか。「感覚があう」ということに尽きるのかなあ。映画の話などは全然わからないし、ここに紹介されている映画を観たいとは思わないし、多分観てもあまり面白いとは感じないと思うのだけれど、読んでしまうんだなあ。(近藤唯之調)

  文章がドライ、考え方がドライだけれど、 多分、小林信彦ってウェットな人なんだと思う。それを努めて表に出さないようにしているんだろう。それがいいんだなあ。

 

 昭和史七つの謎 保坂正康 講談社文庫 目次に戻る 
 
 七つの謎とは
 1 日本の<文化大革命>は、なぜ起きたか?
 2 真珠湾奇襲攻撃で、なぜ上陸作戦を行わなかったか?
 3 戦前・戦時下の日本のスパイ合戦は、どのような内容だったか?
 4 <東日本社会主義人民共和国>は、誕生しえたか?
 5 なぜ陸軍の軍人だけが、東京裁判で絞首刑になったか?
 6 占領下で日本にはなぜ反GHQ地下運動はなかったか?
 7 M資金とは何をさし、それはどのような戦後の闇を継いでいるか?
 と、
 番外編 昭和天皇の謎 保坂正康・原武史の対談
 である。

 第1話の出だし
  昭和8(1933)年から、昭和の歴史は大きく様変わりしてしまったのではないか。
 「動機が至純の情にみちていれば行為が善か悪かは問わない」「自分の論がいれられなければ他者とはコミュニケーションをもたない」 といった理性、知性の放棄、感情の発露のみが先行する社会。外国を恐れる恐外病、その裏返しとしての外国蔑視の支配する国家。そ して軍事のみが国家を支えるのだという歪んだ感情の時代。そういう社会と時代の波は昭和8年から始まったのではなかったか。
  依然として、日本は変わってない、と思う。
  昭和前期において、日本が大きく変わって、戦争に突入し、敗戦になって、変ったのは表面だけで、本質的には或いは「情」的には全 然変っていないのではないか。
 
  このような本を読むと、すごく腹が立つ。
  日本は、どうしてこうなってしまったのか?

  といいつつ、では昭和8年以前の日本はよかったのか、は解らない。
  そしてもう一つ、そんな日本だから戦争に負け、戦争に負けたから、今の日本がある、という事実。
  負けていなかったら、一体今どうなっていたのだろう。
  そう思うと、負けてよかったと思う。すると、負けた原因を作った(=新しい日本を作ったともいえる)A級戦犯は?戦争で亡くなった人た ちは新しい日本を築く礎になったのではないか?
  矛盾している。

  で、なお、腹が立つのは、負けたのは良いとしても、負けた原因を誰かのせいにして、全体として変らなかったことである。

  日本の民主主義はまだまだだと思うのである。
  ツライ。


 大盗禅師 司馬遼太郎 文春文庫 目次に戻る 
 
 先日、友人が妙齢のご婦人に
 「どんな本をお読みになりますか?」
と尋ねられて
 「司馬遼太郎です」
と応えたら
 「千葉?」
 「いえ、司馬遼太郎です」
 「千葉?」
 という会話になり、なんとなくうんざりした雰囲気を感じ、心の中で笑ってしまいました、と同時に司馬遼太郎も知らないのか、と驚いたのでした。司馬遼太郎は妙齢の婦人(どんな人だ?)さえも知らない人になってしまったのか。

 というわけで、文春文庫からでた「大盗禅師」を読みました。
 幻の司馬文学、復刊!
 夢か現か−全集未収録の幻想歴史小説
 だそうです。

 今まで読んだものとは明らかに異質で戸惑いました。
 そして戸惑いながら読了。

 由比正雪、国姓爺(こくせんや)鄭成功がからんだ、日本と中国(明)を舞台にしたスケールの大きい、そして幻想的な小説です。
 解説が二つついているが、そのうちの高橋克彦は「司馬さんはこの作品をよしとしなかったのかも知れない」としながらも「が、私は反対に圧倒的な傑作と感じた」と書いている。

 私は「そうかなあ」と思う。
 今まで読んだ作品と異質ということだけでなく、どことなくとりとめの無い、まとまりの無いものになっていると思う。
 次はどうなるのだろう?と何回読んでも思う司馬作品とは違い、次への期待感が薄いと感じたのです。

 それでも、こういう作品もあったのだなあ、という感想。
 もっとも、司馬作品には幻想的な系列のものがあるのだそうで、私も、まだまだ未熟。
 「司馬遼太郎を知らないのかあ」
 なんて、妙齢のご婦人を笑ってはいられないのです。


 シェイクスピアを楽しむために 阿刀田高 新潮文庫 目次に戻る 
 
 シェイクスピアの名前とその作品の名称を知っていても、作品の内容まではよく知らない人が多いのではないか?
 と思うのも、自分がそうだからである。
 
 少年少女名作文学、という本の中でシェイクスピアを読んだが、それはいわゆる少年少女向けのリライト版であって、大筋はあっているけど、微妙なところは子供向けだった、と思う。
 だから、スジだけは何となく覚えているけど、子どもの頃に読んでシェイクスピアはスゴイとは思わなかった。
 思っていたら、スゴイ人になっていたかも・・・。
 
 この阿刀田高の本は12話で構成されており、マア概ね作品は紹介されていると思う。
 ハムレット、ロミオとジュリエット、真夏の夜の夢、ベニスの商人、リア王、マクベスなど

 で、シェイクスピアを本当に理解し楽しむためには
 1、英語力+西洋史+西洋のしきたり などを知る必要がある。
   つまり、英語による駄洒落のようなもの、や、物語の背後にある歴史や風俗を知ること
   また、典型的人物は「人種」であったり当時の「職業」であったりで説明をしなくてもわかるらしいのだ。
   それらを、文で読むとよくわからないが、見る(視覚)では一目でわかるから
 2、シェイクスピアは小説ではなく戯曲であるからして芝居を見るべき
 ということがわかる。

 というのを前提にしつつも、そんなことを知らなくても、シェイクスピアは充分に面白い、らしい。

 一人一人の個性に深くはまり込まないで、典型的なあるいは特徴的な登場人物たちが織り成すドラマなので、例えば悪役は徹底して悪役、狂言回しはそれだけのために存在するわけで、現代のように、その人物の見えない部分まで想像する必要はないのだ。

 文学的にというか純文学的に、それぞれの心理を想像し「ああ人間とは不可解なり」ということを深読みするのではなく、劇として、物語の筋と伏線がうまくからんで、複雑そうだが実は単純系な物語が、感情的に納得できる形で終われば、良し、というのが、シェクスピアの物語である、ということらしい。
 あとは、この物語の受け止め方を、それぞれ演出して劇にしてしまえばよいらしい。

 このへん「らしい」が続くのは、自信がないからなのだが・・・・

 ベニスの商人は、子どものとき読んだ感想は、金貸しのシャイロックが何となく可哀想だと思ったものだ。
 そう思ったら、ベニスの商人をその感想のように演出をしてゆけばいいということ、らしい。

 ともかくエンターテイメントなのがシェイクスピア。それをどう解釈するのかは読者しだい。
 つまりシェイクスピアは「ただ面白ければいい」とおもって戯曲を書き、面白いためには単純で普遍的な物語、と規定した、ん、だろうなあ多分。
 そんでもって、いろいろな人が独自に解釈をしてきたんだろうが、どうも結論には至らなかった。つまり、もっといろいろな解釈があるんだろう、だから、いつまでたってもシェイクピアは上演されるんだろうなあ、その時代背景に従って。スゴイなあ。
 
 ちょっと、シェイクスピアを読んでみたい気分。
 今の自分は、読んで、どういう感想になるのだろうか。


 コットンが好き 高峰秀子 文春文庫 目次に戻る 
 
 高峰秀子の文章は、サッパリしていて、歯切れがよい。リズムがいい。
 声に出して読みたい日本語、という感じがする。

 文章だけでなく、その中で語られていることも、潔いし、当を得ている。
 思わず、そうだそうだ、といいたくなる。
 ぜひ、この人の話をじかに伺いたいと思ってしまう。

 このエッセイ集は、高峰秀子が持っている「モノ」にまつわる話が主である。
 すごい高いものだろうなあ、というのもあるけれど、全て実用しているところがスゴイ。使うから、使うにあたってはやはり自分の好みのものを、というところで、選んでいるものだから、高嶺秀子の美意識がモロに窺うことができる。
 
 で、素晴らしいんですよねえ。
 一流の人たちの中で過ごしてきただけがある。
 映画という世界で、すごい勉強をしてきた、すごくいい影響を受けてきたということが感じられる。
 同じような環境の中にいた人もいただろうけれど、感性が素晴らしかったことと、生きてゆくことへの覚悟がすさまじかったんだろうと思う。それが、文章を書いたときに現れるんだろう。

 ドライで醒めているようで、実はウエットで熱い、そんな感じの人なんだろう。

 文中によく出てくる言葉「夫・ドッコイ」は夫君の松山善三、いい人をお嫁さんにしたなあ、とうらやんでしまう。

 高峰秀子の書いて文章は、真似をしたい、お手本である。


 おんな飛脚人 出久根達郎 講談社文庫 目次に戻る 

 アネックスにも書いたが、出久根達郎を読みたかった。
 エッセイを1冊は決まったが、小説をどれにするか迷った。
 で、丁度、NHK金曜時代劇で放送する「人情とどけます」の原作である「おんな飛脚人」があったので、それにした。

 実はテレビ放送が始まる前に全て読んでしまったのである。
 で、テレビ放送は既に3回を放映している。
 
 結論
 小説も、テレビもどちらも面白い。
 小説とテレビは、チョット違うけど、話の筋は同じ。
 であるからして、ここで、スジをばらしてしまうことはできないので、あしからず。

 小説はその1からその13まであり、1話完結の連作というかんじ、丁度、テレビには向いている。
 それぞれの話が、殺人などはおきないけれど推理小説仕立てになっていて、そして全体的(連作的)な謎もある。
 全体を貫くトーンが重くなく、かといって軽すぎず、「ちょうどいいあんばい」状態である。

 テレビを見ていて感じたのは、走り方、である。
 手を前において、丁度音楽で指を鳴らしてリズムを取るような、感じで、腿の前で上下に振る。
 昔はあのような走り方だったんだろう。あれは一見の価値あり。

 それともう一つ、時代劇(といっても昭和40年代ころまでを時代背景としたもの)で使われている江戸弁や東京言葉の歯切れの悪さが気になる。昔の映画を見ると、昔の言葉遣い、特に下町言葉の歯切れというのが気持ちいい。多分、今はそういう言葉を話せる人がいなくなったんだろうとおもうが、テンポのよい、しゃきしゃきした感じの話し方で、時代劇なんかやってもらうといいなあと思う。

 原作のイメージは、そういう言葉遣いだと思う。

 是非、続編を、と思う。

 ソ連が満州に侵攻した夏 半藤一利 文春文庫 目次に戻る 

 ホントに腹が立つ。
 第2次世界大戦の日本の中枢部の話は、腹が立つことばかりである。
 最前線の兵士たちの質は、明治以降他の国に負けないものであったのに、軍でも政治でもその上にあぐらをかいた状態で日本をだめにした。

 昔も今も変らない、というのも本書を読んでの感想だ。
 ソ連の参戦について、日本の首脳は、参戦しないだろう、参戦して欲しくない、ということから何らの対策もしなかった。
「幻想、独善、泥縄的な発想は日本人の常なのであろうか」
と、半藤は語っている。
 マッタクそのとおりである。
「敗北はつまるところ怠惰、非現実、夢想の烙印なのであろう」

 明治は日本統一をし、天皇を統治者として認知させた。そして天皇のための国家となった。
 しかし、明治を作った元勲たちは、現実を知っていた。日本はまだまだ三流国である。だから外交は押すとことは押すものの引くところは引いてきた。
 その後を引き継いだものは、現実を認識せず、自分の思うように世界と渡り合えると考えた。

 そう考えた連中は、若い世代である。陸軍の参謀、佐官クラスである。
 それらを押さえるべき将軍たちの多くは、太っ腹を装い、若い世代の人気取りをした。でないと、自分の地位を守れないから。
 夜郎自大な考えの若い佐官クラス、それらにのって神輿の神様になろうとした将軍たち。
 こういう人に指揮された国民は不幸になる。

 常に統治者を求める国民。統治者には西郷隆盛のような人を望む国民。それに応えようとする指導者たち。
 昔も今も変っていない。
 民主主義なった今も、国民は統治者を、優れたリーダーシップの発揮できるものを求めている。
 リーダーになろうとするものは、戦国時代や江戸時代のような封建時代にそのモデルも見出す。
 だけど、今の時代、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康なんていうリーダーになれるわけがない。信長や家康は生れたときからリーダーだった。秀吉は、例のないくらいのカリスマ性を持っていた。
 今の時代、そんなリーダーになれるわけがない。

 信長だって、昔の自分を知っている家来を放逐した。
 今、例えリーダーになったって、リーダーになる前のことを知っている者はいっぱいいて、偉そうにいってるけど昔はこうだった、なんて言うのはすぐに出てくる。
 権威なんてすぐに崩れるのだ。

 本書は、戦争末期の状態、ソ連が参戦するところを描いたものだが、その対応振りは今と変らず、日本という国の本質は、あの自分とあまり変っていないということが、つくづくと認識させられる。

「敗戦を覚悟した国家が、軍が、全力をあげて最初にすべきことは、攻撃戦域にある、また非占領地域にある非戦闘民の安全を図ることにある。その実行である。 (中略) 日本の軍隊はそのように形成されていなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体護持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。(後略)」
 これは今の政治や行政にあてはまらないか、大きな会社にあてはまらないか。

 誰のために、何のために、政治や行政や企業はあるのか?
 天皇の代わりに誰かがいる。天皇と違って自分のことしか考えない奴がいる。そいつのために日本があるようだ。

 今、大きな話題である市町村合併は、行政と行政の合併ではない。自治と自治の合併だが、果たして、そのような枠組みで動いているだろうか。

 第2次世界大戦の悲劇、政治や行政の無知を心から反省し、それを次に生かしてきていたなら、と思う。今からでも遅くないのではないか。統治するものを求めるのではなく、自治を求めなければ、いずれまた悲劇が繰り返されるような気がする。
 誰かに責任をなすりつけて、一件落着、とはいかない。

 二度と戦争はしない、という国家を作るのではなく、国民を見捨てない国家を作ることが大事ではないか。

 ウーン。今回は硬派だった。

 運命の一球 近藤唯之 新潮文庫 目次に戻る 
 
 近藤唯之の文章は独特である。
 この文章が好きだ。潔い。いいリズムだ。そして何よりの特徴は「熱い」ということだ。

 この本は、プロ野球選手20人の運命の一球を描いている。
 一人のプロ野球選手を語るとき、歴史上の人物や、プロ野球の先輩たちがいっぱい登場する。
 そして、その選手にとっての運命の一球を鮮やかに浮かび上がらせている。

 野球選手たちは、大きな部分で悩んでいるうちはマダマダ、ホンの僅かな違い、超微妙な差で行き詰まった者が本物、一級品だということが、この本を読んでわかる。

 例えば、山田。山田の運命の一球は、日本シリーズ、快調に飛ばしていた山田は9回、王にホームランを打たれる。何故打たれたのか?山田自身の甘い考え方、生と死を同居させていなかったから。
 なんとも難しい話ではないか。

 しかし、よくわかるのだ。最初から最後まで読めばいい。

 近藤の考え方は、ちょっと古い。頑固である。
「男の人生は、人と人との出会い、出会いこそがすべてといっていい」
 この考え方で、物事を見つめている。貫かれている。

 この古くて頑固な考え方に、時に反発をしてしまうが、何事も「是」として受け入れているフリをしている多くの人たちよりも、一つの考え方を柱に物事を見つめダメなものはダメというほうが、ほんとうはいい。

 今、大人たちは、自由であるということで「何でもあり」なのだとしているが、実は違うことを言う必要があると、強く感じたのだ。


 添乗員騒動記 添乗員奮戦記 岡崎大五 角川文庫 目次に戻る 
 
 添乗員に向いている。
 と、自分でも思ったし、人からも言われたことがある。
 旅が好きだし、知識もまああるほうだし、頭の中に地図が描けて時間を割り出すこともできるほうだし・・・・

 一回、仕事で、添乗員のようなことをしたことがある。
 業界の全国大会の事務局で、役員会、総会、宿泊、宴会、観光と全ての手配の総元締めである。
 松島の観光遊覧が濃霧のため、途中で引き返し、急遽、スケジュールの変更をした。
 多くの人から、帰りの飛行機などの時間の問合せがあったし、土産物の値切り交渉までしたが、結構楽しかった。
 で、本気でやってみよう、なんて勘違いをして、旅行取扱主任者の本を読み、試験を受けようとしたが難しい、特に英語、で挫折した。
 
 それに、これが最も向いていない理由なのだが、バスに酔う。
 乗ってすぐ酔う。
 観光地をめぐって、乗ったり降りたりしているのはいいが、長距離は駄目です。
 だから、このごろは一番前の席に座るようにしている。
 それでも酔う。
 添乗員がバスに酔っていたのでは話にならない。あきらめた。

 三浦朱門の「旅は道づれ」という小説は、添乗員が主人公。
 深田裕介の「ドジ添乗員(コン)物語」も同じく。
 結構、こういう話は好きなのである。

 今回は、本物の添乗員、岡崎大五が、その経験談をまとめたものだが、事実は小説は奇なり、である。
 この人は、アジア各地を転々として、その後添乗員になった人。ホカにもいろいろ著作があるらしいが、まだ文庫化はされていない。

 「添乗員の仕事というのは、基本的には旅程管理の仕事である。」
 と、しながらも
 「多くの添乗員は通常こういった旅程管理の仕事に腐心するよりも、ある種なんのいわれもなく一緒に旅行することになった人たちに、早く旅行のペースに溶け込んでもらい、物事がいいように回転するよう、目に見えない運気を獲得することに苦労する。」
 のだそうだ。

 この運気を獲得することに、岡崎は苦労する。

 旅に参加する人たちは、ほんとにイロイロ、この人たちは何かしら旅に望んでいることがある。これを全てかなえてあげたい、というのが岡崎の望みであり、仕事である。
 
 結局は、人と人との話なのである。
 だから面白い。