循環コスト内部化の限界

 循環法の議論の中心である拡大製造者責任(EPR)で言われている、廃棄物の処理・再資源化コスト(循環型社会では循環コストというであろう;以後循環コスト)を製品価格に内部化する事によって、製造者にそのコストを削減するインセンティブを与え、循環を促進しようとする考え方は、循環型社会を促進するばかりか障害になる可能性が高いものである。以下にその理由をあげる。

(1)循環可能性の高いものが循環コストが低いとは限らない

 まず、循環コストの製品価格内部化には、重大なそして本質的な問題点があることを指摘したい。

 その問題点とは、循環可能性が高いものが必ずしも循環コストが低くないということである。循環型社会の循環は単に使用済みのものを素材としてリサイクルするのではなく、なるべく小さな環の循環がより価値が高いと言える。より小さな環の循環とは修理や製品そのものの再使用や部品の再使用というような、素材としてリサイクルするよりもエネルギー消費の少ない循環のことである。

 このような循環を考えると、循環可能性の高い製品とは耐久性があり、修理が容易なものであり、循環可能性の高いメーカーとは修理体制の整備や長期間保証などのサービスを行う企業と言える。このような循環の取り組みは低いコストで行うことができるものではなく、ある程度のコストが必要となってくる。

 つまり、素材のリサイクルだけを考えた場合、リサイクル性の高いものが循環コストは低くなるが、循環型社会で望まれるより小さな環の循環を考えた場合、循環可能性が高いものが循環コストが低いとは限らないのである。

 製造者に対し、循環コスト削減のインセンティブのためにその内部かを義務づけるとしたら、それは本質的な循環型社会構築の障害になる可能性が高いのである。

 

(2)売れる製品は、循環コストのみでは決まらない

 製造者に循環コストの製品価格内部化を義務づける理由として、循環コストの高いものは製品価格も高くなり、ひいては循環コストの高いものが市場から淘汰されるという側面もあげられている。しかしこれは、製造者が循環コストが高くてもトータルで製造コストが安い方法を選択することや、循環コストが高くてもより消費者に魅力のある製品(売れる商品)の製造を選択することを許容している。また、循環コストが製品価格に内部化されると循環コストそのものが消費者からは見えなくなってしまう。これは、製造者が市場シェア獲得のために、ある製品の循環コストを他の製品に上乗せすることも可能とするのである。

 

(3)消費者の行動に影響を与えない

 循環コストの製品価格内部化は消費者に対しても良い効果は与えない。消費者は循環コストが見えないため、循環コストにかかわらず、製品価格が安いものを選択するだろう。また、無償で排出ができるため、排出時の様々なオプション(Reuse、Repair等)へのインセンティブを失わせ、排出抑制にもならないのである。

 

(4)実際のシステム上の問題

@困難な製造者の確定

 家電製品や車のように製造者が確定できるものもあるが、我々の身の回りの品々はそうでないものの方が圧倒的に多いのである。例えば、建築物の製造者とは誰なのであろうか?ハウスメーカー製であれば製造者は確定できるが、それ以外の一般住宅の製造者とは、建材メーカーなのか材木屋なのか工務店なのか設計者なのか、はたまた大工なのだろうか。そして、非メーカー製の食料品の製造者とはだれなのだろうか?農家だろうか?漁師なのだろうか?

 もし、製造者を確定できるものだけを対象にするとしたら、住宅はハウスメーカー製のものだけがその対象となり、それ以外の住宅は対象にはならない。しかし、ハウスメーカーのものを町の工務店が増改築したらどうなのだろうか?食料品は味の素やハウスのものはその対象となり、八百屋や魚屋のものは対象にならないだろうか?でも、処理する生ゴミの区別をできる者は誰もいない。このように製造者が確定できるものやそうでないものが混在すると、処理する側に非常な混乱を招くことになる。生ゴミも貴重な資源であり、発生を抑制することはもちろん循環の範囲外で良いということはないのである。

 製造者が確定できないものは、その循環コストを製品に内部化することは不可能なのである。

A循環コストを確定し、製品価格に含めるメカニズムをどうするのか

 実際の収集や処理において、食料品の容器包装のように製造者自ら無償引き取りを行うことが不可能であるものは、第三者が引き取り、循環させ、その費用を製造者に請求することになる。つまり、製造者以外の誰かが循環コストを規定し、その処理量に応じて製造者にその費用を請求するシステムが必要となる。

 このシステムには大きな問題が二つある。一つは全ての企業を網羅的にシステムの対象とすることが困難である点である。例えば食料品の容器包装であれば、町の食料品店やお祭りのテキ屋など中小零細を含めると何十万社もある食料品の製造者とその製品や販売量の全てを把握することは不可能と言える。つまり、「漏れ」の無いシステムとするには途方もなく膨大な労力がかかり、「漏れ」を容認するのであれば、不十分な循環になることに加え、「漏れ」の企業の分のコストまでそれ以外の企業が負担するという潜在的に歪みを内包したシステムにならざるを得ないのである。このような製品は、食料品の容器包装に加え、ほとんど全ての日用品、衣料品などがそうであろう。

 上記がお金を集めるシステムだとすれば、集めたお金を分配するシステムも問題となる。全国の市町村や民間の事業者が循環の役割を担うとすれば、数千の事業者がその対象となる。それらの事業者が何をどれくらい処理したかを証明するシステムを構築(電気やガスのようにメーターをつけるわけにはいかない)することは不可能であるし、循環コストはものの性状に加え、誰がどのように、何に循環させるかで大きく異なる。つまり、ガラスを処理したとしてもそれが飲料の瓶だったのか、化粧品の瓶だったのか、花瓶だったのか、窓ガラスだったのか確定させることは難しく、またその収集方法や、施設の種類、何に再資源化したか、そして再資源化したものの市場価格によっても循環コストは変わってくる。このコストを正確に請求することは不可能であり、どんなシステムを採用したとしても曖昧になってしまうのである。

 

 

 以上のように、循環コストの製品価格内部化は、本当の循環型社会構築にとってマイナスの部分が大きく推進されるべき政策ではないことが分かる。