前著「Yohaku」の巻末に記載したような異例の希望が叶い、1993年9月末日で(株)
東芝を退職し、10月 1日を以って東芝情報システム(株)に入社した。最初の朝岡本社長へ
の挨拶も早々に、月初めの全管理職朝礼で「これからはソフトウェアの時代、身軽な会社の時
代と考え、役に立つ仕事をしたいという目的意識で当社に参りました」とやや長めの挨拶をし
た。北林常務総務部長が気を利かせて、持参した濃密な自己紹介1頁を急遽コピーして全員に
配布して下さった。思い切ったことをどんどん実行する珍しい総務人で思えば大変お世話にな
った。
役員待遇社長付という仮処遇で業務統括部に机を置き、小泉副部長が仕事上と呑むことの面
倒を見て下さった。山本幸枝さんが日常の世話をして下さり、私がお願いする慣れない秘書業
務を兼業でよくやって頂いた。色々な社内会議に出席させて貰い、またTJビル2階の社内バ
ーや近くで呑むことを通じて少しずつ仕事と人を理解した。当然ながら、親会社から降って来
た人間が一体どんな奴か皆が様子を見ていたが、或る日某本部の部長連の発案で本部の幹部一
同で日進町ビル12階で初めて歓迎会をやってくれた。普通歓迎会はしない伝統(歓迎する訳
ないか!)だと聞いていたので、食堂のテーブルを2ー3卓集めて作った席の上のつまみと酒
が格別美味であった、
東芝の仲間が10月以前と以後に色々な形で開いてくれた送別会も別の意味で嬉しいものであ
った。異なる組み合わせの仲間が合計19回の送別会をして下さり、最高5回に出席して下さ
った人も居た。34年半勤めた歴史の重みである。それにしても東芝の35年勤続の表彰式に
だけは出たくないと思っていたのは辛うじて達成した。但し繰り上げ計算だそうで1994年7月
に記念品だけはチャッカリ頂戴した。
当社では面白いことに長年の仲間同志を「キンチャン」「ゼンチャン」などと愛称で呼ぶこ
とが多い。「ちょっと待って、そのミネチャンというのは誰?」と新米としては尋ねざるを得
ない。しかし外様の私をそのように呼ぶはずも呼んで貰いたくもない。当社でも「常務」「部
長」と職名で呼ぶことが一般的であるが、私は「社長付」だから呼び難い。仕方なく「松下AP
(Assistant to President)」と呼ぶ人も居る。絶好のチャンスだから私は「さん付け」で呼ん
で欲しいと長年の主張を徹底した。後に専務に就任した時の挨拶も「私を専務と呼ばないで」
であったが、私の態度が良くないと思う時だけわざと「専務」と呼ぶ人も居て面白い。世の慣
行と違うことの普及は東芝社内でと同様仲々難しい。
12月から中期事業計画の策定が始まり、私が全社の策定責任者に任命された。これは私にと
って会社の実情や各責任者の人となりを理解するのに又とない好機であった。また会社の方針
と各責任者の意識に新風を吹き込み新時代に適応した方向付けをすることができたと思えるの
は幸せである。下期の私の仕事は中期事業計画に尽きたとも言えて、希望通りやり甲斐のある
仕事に打ち込めた充実感があった。
年末から年初に、思い立って「契約ノウハウ移転ゼミ」というのをやった。私の国内外契約
交渉の実務経験20年のノウハウが、事業形態の変化で契約が必要になりつつあった当社各位
の関心を呼んだ。最後のアンケートでは26名中24名が役に立ったと無記名で答えてくれた。
12号の油絵を描いて総務の黙認を得て会議室に掲げさせて頂いた。冬の朝の通勤時間に団
地の中庭から見ると会社の2つのビルに丁度朝日が反射して綺麗である。1994年2月14日の大
雪で中庭が雪景色になった向こうに朝日が反射する2つのビルを描き、景気は冬だが当社には
希望があるという寓意を表現した。後に1996年春当社の業績も大分良くなってきたので、いつ
までも雪景色ではあるまいと、公園道の満開のサクラの先にTJビルが見える構図で下塗りまで
したのだが絵心が続かずそのままとなった。あるいは「まだサクラ満開は早い」という深層心
理が働いたのかも知れない。
机の上にライオンの置物を置いた。「ぼやぼやしてサボッていると食われてしまうぞ」とい
う自戒のためである。怠惰に食われ、時間に食われるという意味である。後に東芝の吉村由美
子さんがタイのピンクの象を呉れ、表取締役がシンガポールからのヒスイの水牛を呉れたので
3頭並んだ。「サボルなよ」「優しくあれ」「慌てるな」という3つのメッセージだと思って
いる。


八ケ岳では10月にはもう草々が紅葉する。秋に一番遅く咲くリンドウがその中からすっく
と立ち上がって天に向かって青紫の花を開く。何かしら決意のようなものを感じる。
希望が叶って東芝情報システムで働けることとなった。太田病院前から初めて会社の白い
ビルを見上げて、ルビコン川を渡ってしまった覚悟と闘志を新たにした。私に何をさせた
らよいかと心配してくれた数人が船津剛男氏に相談に行かれたと後で聞いた。
1993年10月 指間よりこぼれし胡桃草に隠れ
蓼科三井の森の竜神池にはクルミの木が多く、緑の実が沢山草むらに落ちる。左手一杯に
持ちながら更に拾い集めていると、指の間から実が一つ落ちて草にまぎれてしまった。
まだ勉強一方の中で一つだけ仕事をした。当社のLSI設計部隊が或る高速マイコン設計の
仕事を受注するつもりで準備していた。いやこれは米国のパートナが自製を決め駄目にな
ったはずと、確認して準備解消のアドバイスをした。
1993年10月 世の季節導かんとやハゼ紅葉
本当はハゼとウルシは違うのだが、私の育った山口県での呼び名でハゼ(土地の発音では
ハデ)と言わせて貰う。ウルシは真っ先に真っ赤に美しく紅葉し、紅葉の季節を先導する。
F社はOEMのSun Workstationと自製のWorkstationとを持っているが、後者に代わるものと
してSun互換のWorkstationを自製し発売した。Sun OSのライセンスは受けるなどSUNと連
携しつつ、利益の出易い部分は自製したことになり、新しい業界慣行を作り出した。
1993年11月 香なく金木犀の散らんとす
自宅のキンモクセイが咲いたと聞いたが、昼間は家に居らず観賞できなかった。やっと花
に鼻を近付けた時には短い花期がもう終わり、ほとんど香もなく散り始めていた。
1993年上期のオフィスコンピュータの業界売上金額は前年同期比 77.6%というデータを見
た。1000万円以上の機種が 74.2%と最も低迷しているのは景気の影響であろうが、全般的
な低迷はDown-SizingとOpen化の影響が大きいと見える。
1993年11月 唐松の落葉吹雪や雲速し

八ケ岳では唐松の落葉が強風に散り、見上げれば降る黄金色の葉の上に真っ青な秋空があ
り、白い雲が見る見る流れていた。散歩の後ワイフの髪から落葉を取るのが大変だった。
東芝のマルチメディア推進部が主催の社内向けマルチメディア展を見学した。華麗にして
動きの速い分野である。華麗さに目移りし世の中の動きに遅れぬよう注意しなければなら
ぬ。当社はSoundware CD-ROMを出展、東芝EMIが探検もののゲームソフトを数点出した。
1993年11月 緑なるコブシのもとの落葉かな
自分で設計した自宅の庭の中央にはコブシの大木がある。コブシの葉はまだ緑であるが、
根元に黄色の落葉が一枚落ちていた。知らぬ間に秋は深まって行く。
コンピュータ各社が上期の売上実績と下期見込みを加えた年度見込みを発表し、年度初め
発表の見込みを各社とも大きく下方修正した。幸いメインフレームをやらぬ東芝は、その
落ち込みを抱えた日立の半分以上、富士通・NECの三分の一以上を初めて達成見込み。
1993年11月 秋冷に一葉落ちぬかさかさと
朝はぐっと冷えるようになったが爽快である。川崎駅から線路沿いに会社に向かう公園道
の煉瓦畳に、かさかさと驚くほどの大きな音を立てて木蓮の葉が一枚落ちた。
東芝のL製品の事業が関連会社に移管されることになった。この会社が東芝のOBを一人受
け入れてL製品の開発を始めた時には成り行きを心配した記憶がある。結局この会社の安
く作る能力、オーバヘッド・スタフの小さな体質がこの事業に向いていた。
1993年11月 湯煙を追えば緋紅葉青き空
ゴルフ場の風呂場の窓から流れ出す湯煙を目で追えば、その先に見事な緋色の紅葉が青空
に映えていた。緑と紅葉と青空の三色の取り合わせが美しい。
ソフト事業戦略を討議するS会議で、パッケージソフトウェア戦略の提議があり、視野が
鮮明化した。私からは、ハードウェアとのバンドルもよいが、周辺関連ソフトウェアとバ
ンドルしてコンサルティング付きで一括提供する可能性を指摘した。
1993年12月 山茶花に惹かれしや球 幹の陰
打球は大きくスライスして右のサザンカの木の根元に入り、左打ちで出したが1打損をし
た。フェアウェイの真ん中を進む人は薄紅色のサザンカの満開が見られず気の毒だ。
事業形態の変化に伴い契約への関心が高まる中、私の過去二十年間の邦文・英文の契約の
経験の移転努力をしないと業務怠慢を後悔すると思った。提案は大賛同を得て7週7回の
早朝ゼミをやることになった。有り難迷惑の寄り道にならぬように頑張ろう。
1993年12月 冬霧の満つ谷行かん道信じ
里から見て雲が掛かった山は、中に入れば霧である。清里の方にドライブしたが、折から
の霧で道も定かでない程であった。しかし確かこの道で清泉寮はよいはずと思って進む。
東芝グループ各社の中期事業計画の見直しが始まり、当社では私が責任者となり、中計策
定委員会を編成した。不況下将来の見通しが不透明な面もあるが、世の中と業界の動向は
しっかり把握しているつもりであり、自信をもって確かな路線を敷こうと決意した。
1993年12月 朝時雨追えば逃げおり虹の橋
休日の朝、中央自動車道を西にドライブしていると、八ケ岳休憩エリアを過ぎた辺りで強
い時雨に遭い、道路の端から立ち上がったような近い虹が出て、車と一緒に移動した。
中期事業計画の事業規模を、ワーキンググループとは独立に私が描いて突き合わせたら驚
くほど一致したので、ワーキンググループ案で進めることとした。今年来年を底として業
態の変化によって緩やかな回復を狙うが、1991年度の過去最高には仲々到達しない。
1994年 1月 コンピュータずっしり重し初出勤
年末年始の休日に、防犯とやりたいことがあって自宅に持ち帰っていたUnixコンピュータ
を持っての出勤は仲々骨が折れた。さすがパソコンより一回り重い。
今年の賀詞交換会はどこも盛況であった。不況であればあるほどこういうものは出席者が
増える。しかし誰の話を聞いても明るさは全くなく、重苦しい正月である。ただユニーク
な役割を確保している事業は不況にも強い。
1994年 1月 寒き道シェリー仲間の暖かさ
東芝と中期事業計画の進行状況を交換する懇談会があり、表、有馬、小泉の各氏と共に出
席した。終わって有楽町のシェリー酒専門の店で呑んだ。寒い夜に仲間は暖かかった。
研究開発室の各リーダから2.5時間活動内容を細かく伺った。要員の多くは真面目で優秀
で、良い仕事をしており、貴重な経営資源であると認識した。しかし歴史的理由で仲間内
の団結が固い一方で事業部門との連携が充分でないと感じ、関係者に改善提案をした。
1994年 1月 雪夜道よぎりし鹿の尾の白さ
八ケ岳中腹の八ケ岳横断道路の雪の夜道をドライブ中、目の前を鹿が3頭横断した。父親
が道路に立ちはだかり母親と子供を横断させた。尾がヘッドライトに白かった。
中期事業計画の各分科会での検討が少しずつまとまってきて、私は週末に持ち帰って精読
し意見を返した。現状延長型の施策もあるが好施策が光る分科会もある。ソフトウェア分
科会については当初の右肩上がりの計画を横這い基調に無理矢理修正して貰った。
1994年 2月 帰り来れば車体の模様は融雪剤
みぞれが降ったり止んだりの中央自動車道から帰り、車体のマダラ模様に驚いた。よく見
ると溶けた融雪剤が車体に飛び散り、空気流で飛ばされつつ乾いた結果であった。
中期事業計画の第1次原案がまとまったが、完成に近い部分と要検討部分がマダラ模様に
なっている。人材派遣で1人月いくらの商売に依存する現状延長型が主体の部門があり、
その通りに実現出来るかどうか心配である。また地方ソフトウェアの施策が充分でない。
1994年 2月 残雪が動くと見えし枝の猫
八王子に雪が降ると、標高が高く人口密度が低い自宅付近は当分雪が融けない。椿の木の
残雪が動いたと思ったら、白い野良猫が地面の雪を避けて枝に居たのだった。
今年度国家予算でのスーパコンの受注実績が発表された。国産メーカとクレイが占めてい
る中で、Thinking Machines、Intel Paragon、Maspar 2式という超並列マシンが含ま
れているのが今年の特徴である。今まで話だけに近かった超並列がいよいよ動き始めた。
1994年 2月 川崎に戻れば香る沈丁花
東京への外出から川崎に戻り、線路沿いの公園道から会社に戻ろうとしたら、早くもジン
チョウゲが咲いており、香りが辺りに満ちていた。少しは南だからだろうか。
業務統括部の有馬副部長から、各地方システムセンタ(=SC)毎の詳細な現状分析と意見が
中期事業計画検討の場に出され、本社各位の地方像把握が大いに進んだ。3支社のSCは支
社の技術部に、3支店のSCは技術部と本社の地方駐在にと再編が提案された。
1994年 2月 大記録と共に我が球雪に消え
易しい勝沼ゴルフコースで珍しく快調で、30台で回れるのではないかと誰かが言った途端
球はコース脇の残雪にはまって見付からなくなり、以降はガタガタになった。
支社店ソフトウェアの中期事業計画の立案は、うまく進むかに見えたが結局今回は挫折し
た。書式と流れ図つきで、採算化可能部分と努力範囲を越える部分とに分離して貰うこと
を依頼したのだが、多くは無理な拡販を仮定して安直に「採算化」されてしまった。
内心憤懣やるかたなかった私は表面だけは冷静に、感想と称して各支社店の計画を
評価して支社店長に送った。一つだけ改革指向の支店計画があったのを横綱に、頑
張る以外に施策が無かった支店計画を前頭に、他を中間に位置づけた。実力や業績
では格下の支店を横綱としたことが他の支社店長にカチンと来て、損益改善努力に
も計画立案にも注力を呼び、後に1995年4月に同様の依頼をした時には立派な計画
が出てきた。
1994年 3月 七色に輝く樹氷空の青


八ケ岳では寒さが和らぐ2月末に、降った雨が枝に凍って樹氷ができ、木々の小枝が全て
氷に覆われる。翌朝晴れると青空を背景に、日光が当たった全山の木々が虹色に輝く。
起草部門の個性で若干十人十色ながら、見栄えする中期事業計画がまとまった。関係者に
感謝の他はない。社員や記者から「貴社の将来は? 企業コンセプトは?」と問われて、
「はいコレッ!」と言えるものになった。ただ業績の悪い部門ほど現状肯定型である。
1994年 3月 紅白の梅咲き揃いし散歩道
自宅のある南陽台住宅地をワイフと散歩すると、都心より遅れてやっとあちこちの庭で梅
がほころび、よい香を漂わせていた。或るお宅では紅白の梅が揃っていた。
Computopia3月号に、「高収益!!情報サービス企業11社の徹底研究」という記事が出た。
ソフトハウスがみな弱っている時に、元気な企業もあるという企画である。NTT-DはSI伸
長、TKCは会計事務所市場捕捉、クレオはリストラとパッケージ路線など。
1994年 3月 霜解けのグラウンド走らん遠慮勝ちに
ワイフと散歩していて自宅近くの東京薬科大学の構内に入り込んだ。グラウンドに出ると
若い頃の虫が騒いでトラックを走った。霜解けで足跡が付いてしまうので少し遠慮して。
一夜漬け風ながら急いで仙台、広島、福岡の順に未訪問支社店を回ることとした。今期初
めに回るべきを、予定が仲々合わぬ内に中期事業計画の渦に巻き込まれ延び延びとなって
しまった。百聞一見にしかず、見たり聞いたりしないと頭に入らない。
1994年 3月 靄列島マリンジャンボは泳ぎぬき
修学旅行の最後に福岡空港からの帰路は全日空のマリンジャンボであった。西日本全体が
靄(もや)に包まれた日だったので、マリンジャンボの鯨が泳ぎ渡る感じであった。
支社店各位は一生懸命であるが成果は充分でない。(東芝と違って)当社の支社店はプロ
フィットセンタであるが、多分その故に本社からの支援が充分でなく、支社店の事業戦略
が明確化していない中で頑張って行こうというのだから大変である。
1994年 3月 下り道振り返り見れば土筆道
自宅の裏山にある都立公園に、もうツクシが出ている頃とワイフと行ってみた。坂を下っ
ている時は見えないが、振り返り坂を見上げればツクシが林立しているのがよく見える。
事業損益が最も厳しいソフトウェアセンターに3日通って全2段部からヒアリングし、概
要を把握した。皆の努力に共感し感動すら覚えたが、「現状プラス頑張り」では解決でき
るレベルではない。「ソフトウェアセンターの止血作戦」という立案をしてみた。
中期事業計画は当然実行しなければならぬが、その際「XX作戦」という格好よい
名前があった方が推進し易い。そこで命名を公募し、20ほどの候補を前に策定委員
の面々は首を傾げていた。
素面よりもアルコールが入った方が、白昼より夜の方が頭が良くなるという定評の
ある小泉副部長が、夕闇迫る頃ポツリと言われた。「STAR21作戦 = Systems Tech-
nology And Re-engineeringではどうでしょう。」 即刻全会一致で決まった。
4月に応用ソフトウェア部門であるシステム事業本部 900名の本部長となり、6月の株主総
会・取締役会で専務取締役となった。本部長級の開発取締役・表取締役が副本部長として責任
を負って下さり、役員3名で1本部を担当するという異例の人事となった。元々2本部であっ
たのをソフトウェア事業の効率化と採算化を狙って統合したからでもあり、私の管理能力への
心配も当然あったであろうが、何よりもこの部門の大赤字を緊急に何とかしたいという経営意
志であったろう。要の管理部長には当社には稀なディジタル能力を持つ中島部長が就任した。
私の秘書には原純子嬢がプログラマから転向して来られた。出雲の一流料亭のお嬢様らしくお
おらかで真面目な仕事ぶりであった。
以前2人の幹部に2人3脚を指示して不評だったことがあったが、今度はまた懲りずに本部
長・副本部長の3人4脚を宣言し、主要守備範囲の濃淡はあるが守備範囲は3人同じという無
理をまた言った。百足競争などと椰楡されながらも、守備範囲は自然に決まって来るものであ
る。後で聞くと、当社伝統の文化が主流を占めるか私流の当社には新しいやり方が普及するか
賭をした人も居たそうである。賭の結末を私は知らないが、私の我流ということではなく時代
の要求と確信する方法で進めるしかなかった。
本部は3つの事業部と営業と共通技術から成る。1つの事業部の経営は正常である。1つの
事業部は辛うじて黒字に留まっており、1つの事業部は高福祉国家の付加価値税率ほどの大赤
字体質であり、合計して値上げの決まった消費税率より大きな赤字になっていた。1ー2%の
赤字を黒字にするのは実は意外に難しいが、これほどの大赤字の修復はかえって易しいのでは
ないかと私は自ら信じることにした。正常経営のお手本が目の前にあるのだから、人事・組織
を含む文化交流をして赤字部門の改善に当たればよいとは、誰でもすぐ考えることである。私
も検討したがそれは採らず逆にLaisser Faire(あまり干渉せず自由にやってもらう)を宣言
した。大分事業構造が違うし、下手につき混ぜるより赤字解消までの時間を稼いでもらう方が
賢明だと考えたからである。
赤字事業部もつい数年前まではむしろ稼ぎ頭であった。それが事業環境の変化で不採算化し
たのだが、栄光の歴史故に「俺は従前以上にやっているのに、それでも赤字なのは俺以外に原
因がある」と考えるのは当然である。周囲を見回せば原因らしきものにこと欠かない。しかし
「俺ではない」と皆が考えていれば改革も改善も無い。私は(1) 損益意識の個人レベルへの徹
底、(2) 減員、(3) 新技術指向、のためにルール、手順書、制度を乱発し、機会ごとに口頭や
書面で思想の普及に努めたが、人の心を動かすには時間がかかる。結局目に見えて変化が表れ
てきたのは、94年下期に新事業部長が日々部下の指導に当たってくれるようになってからであ
った。
3月から半年間「松下英語塾」というのを毎月曜日夕方に開いた。当社の英語のレベルが事
業の制約条件になるのではないかと恐れ、その改善に何か自分でできることをやっておかない
と自分を責めることになるだろうと思ったからであった。オブジェクト指向技術の易しい英文
テキストを読んできて、当番が内容や感想をスピーチし、私が関連事項や業界動向などを英語
でお話する方法で進めた。目に見えて英語力が付いたとも見えなかったが、若干の進歩にはつ
ながったと思う。
息子2人に海外旅行のノウハウを伝授するのも親の責務かと考え、5月連休には家族4人で
香港・マカオ・中国・シンガポールに旅行した。家族揃って初めての海外旅行であり、息子達
の独立心から見て最後の旅行とも悟った。シンガポール以外は実は私も初めてであった。英国
領である香港では英語が通じるのかと思っていたらとんでもなくて、一部上流社会を例外とし
て中国そのものであった。珠海・中山では女工哀史が現実にあるのを見てとても価格で競争は
できないと肌で感じた。夏休みにはワイフと二人で八ヶ岳の阿弥陀岳2,806 mと最高峰の赤岳
2,889 mに登った。
豊田駅近くの古い一戸建ての都営住宅が中高層への建て替えのために取り壊しとなった。
その一角に見事にモクレンが咲き、昔庭だった荒れ地が急に名園に見えてきた。
応用ソフトウェア部門の本部長に就任した4月最初の週間業務報告の冒頭に、以下のよう
な感想を載せた。
[感想]
生涯二度目の重症赤字脱出任務を頂いたと思っている。男冥利である。しかし今度は本社
側は開発V、表Vを初めとする諸氏が居られ、今迄の努力成果があり、一応健全な1事業部
もあり、人の不和で崩れたり私が弱気や怠惰心を出さない限り、道は険しいが道に迷うこ
とはないのではないかと一部楽観もしている次第である。一方まだ私には道が判っていな
いのが支社店側。これは社長以下の支社店戦略会議と連携しつつ。
1994年 4月 ひよ鳥の朝餉口惜しこぶし花

起床後階下に下りる階段の窓から庭の木々を眺めることが多い。或る朝ふと見るとコブシ
の花をひよ鳥がついばんでいる。花弁がポロポロ地上に落ちる。悔しい。
まだ東芝に居た頃、ワークステーションの拡販を狙って大手販社に対して、一部機種の仕
切値を大幅に切り下げた。今回その適用範囲が拡大されたと聞いて、よいこととは理解し
つつも、それが当社では充分活用し難いことを口惜しく思った。
1994年 4月 始終鳴く声も春らし四十雀
山で鳴く鳥は様々だが、鳴く時期は限られている。しかしシジュウガラだけはその名の通
り始終鳴く。同じ鳴き声でも山が暖かくなってくる春には嬉しそうな声に聞こえる。
就任挨拶にお客様を一巡した。同じ話を聞いてもお客さんから聞けばインパクトがあるか
ら、現状把握と動向察知の両面で勉強になる。特定分野のノウハウとシステム設計力で伸
びている顧客、特定市場で高シェアの顧客、幸い市場が伸びている顧客、等色々である。
1994年 4月 蟻の巣のクレイタ三つ四つ花の道
川崎の線路沿いの公園道の煉瓦畳に桜の花弁が敷きつめられた上を通勤する。蟻が活発に
働き、煉瓦畳の間に巣穴を掘った土がクレイタ型に盛り上がってつまづきそうだ。
逡巡していた専用機用の応用ソフトウェアをVisual Basicで開発する大プロジェクトをお
引き受けすることとした。皆で議論し、「本格的パソコンシステムの経験がないというイ
メージを実績で突き崩す」ことを目的に、他本部の応援も得てやる。正道だが難しい道。
「Visual Basicという高級技術で仕事をする以上、経験のある研究室の某氏を半年
借り出して客先に常駐させたいが、研究室が抵抗しているので本部長が動いて欲し
い」と部長が言ってきた。「一寸待って! Visual BasicはCOBOLなんかよりずっ
と易しいし、出来ないと今後はソフトウェア技術者とは言えませんよ。私なら半日
で使い始められる自信がありますよ。勉強しながら仕事をしましょうよ。」と言っ
った。
実証しないとホラになるから、5月には実働3日で30kBの年賀状処理プログラムを
自作した。その後更に7日を掛けて改良し、120 kBのソフトウェアとして今でも実
用中である。なおこの仕事に参画した人は、飯田課長のリーダシップのおかげで、
全員がVBX を含むVisual Basicのベテランに育ち、貴重な知的財産となった。
1994年 5月 嬉しげな山の緑や十連休
五月連休が十連休になった。家族4人で香港・シンガポール等に出かけるためタクシーで
自宅を出ると、前のセミナーハウスの山の緑まで美しく嬉しそうだった。
東芝に居た頃企画したSun互換自製機が発売された。自製だからOEM価格のしがらみから解
放されたと営業は喜んでいる。ハードウェアで充分粗利を稼ぐにはこういう機種も必要だ
が、OEM機種と両方が売れる姿が外交上は望ましい。
1994年 5月 明神池溢れて迅し若葉時


上高地は初夏の若葉が美しい。河童橋から人通りの少ない梓川右岸を明神池までワイフと
歩いた。明神池は静かな池だが、流出口ではごうごうと溢れ出ている。
ソフトウェアセンター止血作戦の内部管理改革で7つのルールを制定したが、一向に実行
されないので部長連の言い分を聞いた。当然やるべき内容だがいつからどうやれとは指示
されてないというので失礼だが具体的に指示した。今度は一気呵成に進むと期待したい。
1994年 5月 雪渓と若葉映しぬ岩魚池
これも明神池である。神様の池では殺生をしないから巨大なイワナが沢山棲んでいる。池
面には明神岳に残る雪渓を遠景に、若葉を近景に、対照的な自然が映っている。
上期第1回の損益見込みを出した。本部3事業部のうち1つは明るく勢もあり頼もしいが
他の2つの見通しは暗く冷え込んで明暗を分けた。合計でも大赤字の見込みとなってしま
ったのを、悩んだ挙げ句率直に社長と経理には報告したので大変ご心配をかけた。
1994年 5月 けたたましく朝を破りし時鳥
山小屋の朝、窓のすぐ近くで「特許許可局」とけたたましく鳴き続けるホトトギスに朝寝
を破られた。「テッペンかけたか」と関西アクセントで言ったように鳴くとも言われる。
5月の月例事業会議では、各本部それぞれ順調な上期損益見込みを報告する中で独りわが
本部だけは見込み数字が悪過ぎて経理にショックを与え、かえって武士の情で白紙回答を
許された。一同懸命に予習して出たが数字の質問は誰からも無かった。
1994年 6月 浮浪者のじっと見つめおり額紫陽花
川崎の線路沿いの公園道にガクアジサイが咲いた。半球形に咲く普通のアジサイと違って
ドーナツ円盤状に咲く。公園道の植え込みに住み着いた浮浪者が呆然と見つめていた。
主要顧客のワークステーション・パソコン関連の応用ソフトウェア発注額のうち、わが本
部は僅か3%しか捕捉していないという開発取締役副本部長の調査結果を聞き、しばし呆然
とした。(努力の甲斐あり、その後急速に事態は改善された。)
1994年 6月 白樺の緑に染まぬ山つつじ
初夏の白樺の葉は陽を透かして全てを緑に染め上げてしまいそうだ。その下で山つつじが
反対色のオレンジ色の花を揺らせており、緑に染まる気配もないのが不思議な程である。
減員が進まないのは課長連の抵抗だと読んで、平田陽一課長をリーダとし、以下9名の実
力課長を集めて仕事量不足と手空き対策を討議する緊急施策諮問委員会を編成した。いず
れも付和雷同せぬ一言居士で頼もしい。問題提起すると「そんなに悪いのか?」と。
1994年 6月 忍び足に夏鴬の大音響
ウグイスは山が寒い時期だけ里に出るので春の季語だが、山では夏も鳴き続ける。道の遠
くにウグイスを見つけ忍び足で近づくと、突然大音響で警戒音の鴬の谷渡りを演じた。
緊急施策諮問委員会が2週間経過して答申を出した。働き盛りの忙しいメンバの短期間の
検討で内心心配していたのだが、内容の濃さに驚愕し、早速検討と回答を約した。「人余
りもあるが、管理者余りではないか」という厳しい指摘もあった。
1994年 6月 掛け合いで競うかっこうほととぎす
山小屋の表裏で、カッコウとホトトギスが掛け合い漫才のように鳴き競っている。同類で
姿も似ているので、文学の上ではしばしば混同されている。
6月の月例事業会議では、わが本部の業績見通しは悪くかつ不確定で、まだ数字は見えま
せんが予算に向けて努力しますと報告した。直後の他本部は、数字は見えたがこんなに悪
いと報告した。どっちもどっちだと大騒ぎになった。
1994年 7月 ゆうすげ株助け起こしぬ梅雨の間に

花を楽しみにしていたユウスゲが風雨で倒され、根元が折れ曲がってしまったので、助け
起こして支柱を立てた。幸いまだ梅雨期で水が豊富だから何とか立ち直るだろう。
或る重要顧客からの発注量が段々減って、この顧客のために編成した部が維持できなくな
ってきた。たまりかねてお願いに行ったところトップからは「後で少し考えようよ」と担
当幹部に言って貰えた。(しかしその後も実は減り続けた)
1994年 7月 雷近し電柱伝いに歩を速め
別荘地を散歩中に雷雨になってしまった。夏だから濡れるのは厭わぬが、濡れた体で近い
雷は恐い。電柱と電線は一番上が接地線だから下は安全だ。電柱伝いに急ごう。
もう今月はまともな損益見込みを出さなければなるまい。正常事業部の利益積み増し、出
費の抑制、それに意欲まで盛り込んでも、まだまだどうしても予算には遥かに届かない。
こういう数字を出すと叱られるだろうなあ。
1994年 7月 信号待ちパット暑からむ吐息ひとつ
会社の前の横断歩道は幹線道路を横切っているので歩行者の信号待ちが長い。暑い日差し
の中で女性のパットが酷く暑そうに見えると思ったらふと吐息が聞こえた。
決心して今期の損益見込みを出した。若干の補填要因があったおかげで破滅的な形にはな
らなかったが、予算にはまだ遠く吐息も出る。今後プラス・マイナス両要因の、マイナス
を抑えプラスの獲得に努力するのみ。
1994年 8月 盆明けの小仏越えむ日の出前に
お盆の連休中は八ケ岳で過ごしたが、一番難しいのは帰京の渋滞回避である。一日早く帰
るのは愚策で実は一番混む。最終日早朝に発ち、東の空が白む頃小仏トンネルを越えた。
今期の損益見込みで苦吟する一方で下期の予算策定が始まり、全社見地から相当額の損益
改善要請を受けざるを得なかった。不況まっただ中で苦しいが「不況は天の助け」と強弁
している。景気回復前に体質改善を完遂しておかないと取り返しがつかなくなる。
1994年 8月 移植されし植木に辛しこの日照
自宅の団地の街路樹はエンジュである。枯れた木の補植が梅雨の間に行われたが、日なら
ずしてこの日照である。元からある木々も辛そうだが移植された木はもっと大変だ。
外注費と翌期持ち越し仕掛残見込み額が「双子の増加」を始めた。損益上はほぼ帳消しだ
から表面化しないが、危険と不安はじりじりと高まっている。私が新人で当社の期中の数
字の傾向が判っていないだけに余計に不安である。仕掛を分析整理する書式を定めた。
1994年 9月 まむし道の立て札飾る葛の花
自宅の団地から裏山に登る道の一つが通る人もなく草木で埋まっており、「まむし注意」
の立て札もむなしい。その立て札にもクズが巻き付き、赤紫の可愛い花をつけている。
今期来期の損益の大勢を決め兼ねない官庁関係の大物件の総レビューをした。金をくれる
人と仕事を頼む人が違うため、金が貰えないのに仕事はやらされる危険がある。慣れた仕
事で一見やりやすいが極めて危険な状態と理解し、作戦を考えた。
1994年 9月 芋掘りて美瑛のパッチは土の色
東芝ホクト電子の見学会に社長の代理で参加した。旭川空港からのバスを気を利かせて、
花のパッチワークで有名な美瑛経由としてくれたが、馬鈴薯収穫の直後で土色だった。
関連会社新任役員研修会は財務諸表の読み方であった。私が敬意を置く東芝アドバンスシ
ステムの増田取締役はここでも遺憾なく異才を発揮した。算術の世界に入ると私も大抵の
人より強いから退屈し、有意義なはずの研修会が少々苦痛であった。
1994年 9月 秋まだきシリコンバレーは金の山
シリコンバレー周辺の丘は、雨の後緑になることもあるが大体は枯葉色である。山は緑と
思っている日本人には荒涼とした景色と見えるが、米人はこれをGolden Grassと呼ぶ。
1年ぶりにシリコンバレーに行った。49'ers = Forty-Niners とは、前年に発見された
カリフォルニアの金鉱に1849年に群がった野心家のことだが、シリコンバレーにはまだ
49'er達が群がり、金鉱を当てようと懸命にやっている。私に見える鉱脈もある。
この時7つの事業機会に出会い、2つはその場で諦めた。残りは Remedy, Viasoft,
Mosaic(Netscapeと改名), Clarify(Remedyより大型), Ascent Logic(設計
法)である。このうち2つは帰国後検討して諦め、最初の3つに当社として取り組
み、その内2つは成功した。
今期の本部損益予算達成は難しいと最後まで内心思っていたのだが、関係者の格段
の踏んばりによって最後の2ヶ月で見る見る改善し、大赤字予算ながら予算通りの
帳尻で締めた。この分野では予算未達成が6期続いた後の7期目の予算達成であっ
た。