1993年下期の出来事

 前著「Yohaku」の巻末に記載したような異例の希望が叶い、1993年9月末日で(株)
東芝を退職し、10月 1日を以って東芝情報システム(株)に入社した。最初の朝岡本社長へ
の挨拶も早々に、月初めの全管理職朝礼で「これからはソフトウェアの時代、身軽な会社の時
代と考え、役に立つ仕事をしたいという目的意識で当社に参りました」とやや長めの挨拶をし
た。北林常務総務部長が気を利かせて、持参した濃密な自己紹介1頁を急遽コピーして全員に
配布して下さった。思い切ったことをどんどん実行する珍しい総務人で思えば大変お世話にな
った。

 役員待遇社長付という仮処遇で業務統括部に机を置き、小泉副部長が仕事上と呑むことの面
倒を見て下さった。山本幸枝さんが日常の世話をして下さり、私がお願いする慣れない秘書業
務を兼業でよくやって頂いた。色々な社内会議に出席させて貰い、またTJビル2階の社内バ
ーや近くで呑むことを通じて少しずつ仕事と人を理解した。当然ながら、親会社から降って来
た人間が一体どんな奴か皆が様子を見ていたが、或る日某本部の部長連の発案で本部の幹部一
同で日進町ビル12階で初めて歓迎会をやってくれた。普通歓迎会はしない伝統(歓迎する訳
ないか!)だと聞いていたので、食堂のテーブルを2ー3卓集めて作った席の上のつまみと酒
が格別美味であった、

 東芝の仲間が10月以前と以後に色々な形で開いてくれた送別会も別の意味で嬉しいものであ
った。異なる組み合わせの仲間が合計19回の送別会をして下さり、最高5回に出席して下さ
った人も居た。34年半勤めた歴史の重みである。それにしても東芝の35年勤続の表彰式に
だけは出たくないと思っていたのは辛うじて達成した。但し繰り上げ計算だそうで1994年7月
に記念品だけはチャッカリ頂戴した。

 当社では面白いことに長年の仲間同志を「キンチャン」「ゼンチャン」などと愛称で呼ぶこ
とが多い。「ちょっと待って、そのミネチャンというのは誰?」と新米としては尋ねざるを得
ない。しかし外様の私をそのように呼ぶはずも呼んで貰いたくもない。当社でも「常務」「部
長」と職名で呼ぶことが一般的であるが、私は「社長付」だから呼び難い。仕方なく「松下AP
(Assistant to President)」と呼ぶ人も居る。絶好のチャンスだから私は「さん付け」で呼ん
で欲しいと長年の主張を徹底した。後に専務に就任した時の挨拶も「私を専務と呼ばないで」
であったが、私の態度が良くないと思う時だけわざと「専務」と呼ぶ人も居て面白い。世の慣
行と違うことの普及は東芝社内でと同様仲々難しい。

 12月から中期事業計画の策定が始まり、私が全社の策定責任者に任命された。これは私にと
って会社の実情や各責任者の人となりを理解するのに又とない好機であった。また会社の方針
と各責任者の意識に新風を吹き込み新時代に適応した方向付けをすることができたと思えるの
は幸せである。下期の私の仕事は中期事業計画に尽きたとも言えて、希望通りやり甲斐のある
仕事に打ち込めた充実感があった。

 年末から年初に、思い立って「契約ノウハウ移転ゼミ」というのをやった。私の国内外契約
交渉の実務経験20年のノウハウが、事業形態の変化で契約が必要になりつつあった当社各位
の関心を呼んだ。最後のアンケートでは26名中24名が役に立ったと無記名で答えてくれた。

 12号の油絵を描いて総務の黙認を得て会議室に掲げさせて頂いた。冬の朝の通勤時間に団
地の中庭から見ると会社の2つのビルに丁度朝日が反射して綺麗である。1994年2月14日の大
雪で中庭が雪景色になった向こうに朝日が反射する2つのビルを描き、景気は冬だが当社には
希望があるという寓意を表現した。後に1996年春当社の業績も大分良くなってきたので、いつ
までも雪景色ではあるまいと、公園道の満開のサクラの先にTJビルが見える構図で下塗りまで
したのだが絵心が続かずそのままとなった。あるいは「まだサクラ満開は早い」という深層心
理が働いたのかも知れない。

 机の上にライオンの置物を置いた。「ぼやぼやしてサボッていると食われてしまうぞ」とい
う自戒のためである。怠惰に食われ、時間に食われるという意味である。後に東芝の吉村由美
子さんがタイのピンクの象を呉れ、表取締役がシンガポールからのヒスイの水牛を呉れたので
3頭並んだ。「サボルなよ」「優しくあれ」「慌てるな」という3つのメッセージだと思って
いる。


1993年10月 リンドウのすっくと咲けり草紅葉

1993年10月 指間よりこぼれし胡桃草に隠れ

1993年10月 世の季節導かんとやハゼ紅葉

1993年11月 香なく金木犀の散らんとす

1993年11月 唐松の落葉吹雪や雲速し

1993年11月 緑なるコブシのもとの落葉かな

1993年11月 秋冷に一葉落ちぬかさかさと

1993年11月 湯煙を追えば緋紅葉青き空

1993年12月 山茶花に惹かれしや球 幹の陰

1993年12月 冬霧の満つ谷行かん道信じ

1993年12月 朝時雨追えば逃げおり虹の橋

1994年 1月 コンピュータずっしり重し初出勤

1994年 1月 寒き道シェリー仲間の暖かさ

1994年 1月 雪夜道よぎりし鹿の尾の白さ

1994年 2月 帰り来れば車体の模様は融雪剤

1994年 2月 残雪が動くと見えし枝の猫

1994年 2月 川崎に戻れば香る沈丁花

1994年 2月 大記録と共に我が球雪に消え

1994年 3月 七色に輝く樹氷空の青

1994年 3月 紅白の梅咲き揃いし散歩道

1994年 3月 霜解けのグラウンド走らん遠慮勝ちに

1994年 3月 靄列島マリンジャンボは泳ぎぬき

1994年 3月 下り道振り返り見れば土筆道


当期の頁冒頭

次期の頁冒頭


1994年上期の出来事

 4月に応用ソフトウェア部門であるシステム事業本部 900名の本部長となり、6月の株主総
会・取締役会で専務取締役となった。本部長級の開発取締役・表取締役が副本部長として責任
を負って下さり、役員3名で1本部を担当するという異例の人事となった。元々2本部であっ
たのをソフトウェア事業の効率化と採算化を狙って統合したからでもあり、私の管理能力への
心配も当然あったであろうが、何よりもこの部門の大赤字を緊急に何とかしたいという経営意
志であったろう。要の管理部長には当社には稀なディジタル能力を持つ中島部長が就任した。
私の秘書には原純子嬢がプログラマから転向して来られた。出雲の一流料亭のお嬢様らしくお
おらかで真面目な仕事ぶりであった。

 以前2人の幹部に2人3脚を指示して不評だったことがあったが、今度はまた懲りずに本部
長・副本部長の3人4脚を宣言し、主要守備範囲の濃淡はあるが守備範囲は3人同じという無
理をまた言った。百足競争などと椰楡されながらも、守備範囲は自然に決まって来るものであ
る。後で聞くと、当社伝統の文化が主流を占めるか私流の当社には新しいやり方が普及するか
賭をした人も居たそうである。賭の結末を私は知らないが、私の我流ということではなく時代
の要求と確信する方法で進めるしかなかった。

 本部は3つの事業部と営業と共通技術から成る。1つの事業部の経営は正常である。1つの
事業部は辛うじて黒字に留まっており、1つの事業部は高福祉国家の付加価値税率ほどの大赤
字体質であり、合計して値上げの決まった消費税率より大きな赤字になっていた。1ー2%の
赤字を黒字にするのは実は意外に難しいが、これほどの大赤字の修復はかえって易しいのでは
ないかと私は自ら信じることにした。正常経営のお手本が目の前にあるのだから、人事・組織
を含む文化交流をして赤字部門の改善に当たればよいとは、誰でもすぐ考えることである。私
も検討したがそれは採らず逆にLaisser Faire(あまり干渉せず自由にやってもらう)を宣言
した。大分事業構造が違うし、下手につき混ぜるより赤字解消までの時間を稼いでもらう方が
賢明だと考えたからである。

 赤字事業部もつい数年前まではむしろ稼ぎ頭であった。それが事業環境の変化で不採算化し
たのだが、栄光の歴史故に「俺は従前以上にやっているのに、それでも赤字なのは俺以外に原
因がある」と考えるのは当然である。周囲を見回せば原因らしきものにこと欠かない。しかし
「俺ではない」と皆が考えていれば改革も改善も無い。私は(1) 損益意識の個人レベルへの徹
底、(2) 減員、(3) 新技術指向、のためにルール、手順書、制度を乱発し、機会ごとに口頭や
書面で思想の普及に努めたが、人の心を動かすには時間がかかる。結局目に見えて変化が表れ
てきたのは、94年下期に新事業部長が日々部下の指導に当たってくれるようになってからであ
った。

 3月から半年間「松下英語塾」というのを毎月曜日夕方に開いた。当社の英語のレベルが事
業の制約条件になるのではないかと恐れ、その改善に何か自分でできることをやっておかない
と自分を責めることになるだろうと思ったからであった。オブジェクト指向技術の易しい英文
テキストを読んできて、当番が内容や感想をスピーチし、私が関連事項や業界動向などを英語
でお話する方法で進めた。目に見えて英語力が付いたとも見えなかったが、若干の進歩にはつ
ながったと思う。

 息子2人に海外旅行のノウハウを伝授するのも親の責務かと考え、5月連休には家族4人で
香港・マカオ・中国・シンガポールに旅行した。家族揃って初めての海外旅行であり、息子達
の独立心から見て最後の旅行とも悟った。シンガポール以外は実は私も初めてであった。英国
領である香港では英語が通じるのかと思っていたらとんでもなくて、一部上流社会を例外とし
て中国そのものであった。珠海・中山では女工哀史が現実にあるのを見てとても価格で競争は
できないと肌で感じた。夏休みにはワイフと二人で八ヶ岳の阿弥陀岳2,806 mと最高峰の赤岳
2,889 mに登った。


1994年 4月 木蓮の咲けば名園荒れし土地

1994年 4月 ひよ鳥の朝餉口惜しこぶし花

1994年 4月 始終鳴く声も春らし四十雀

1994年 4月 蟻の巣のクレイタ三つ四つ花の道

1994年 5月 嬉しげな山の緑や十連休

1994年 5月 明神池溢れて迅し若葉時

1994年 5月 雪渓と若葉映しぬ岩魚池

1994年 5月 けたたましく朝を破りし時鳥

1994年 6月 浮浪者のじっと見つめおり額紫陽花

1994年 6月 白樺の緑に染まぬ山つつじ

1994年 6月 忍び足に夏鴬の大音響

1994年 6月 掛け合いで競うかっこうほととぎす

1994年 7月 ゆうすげ株助け起こしぬ梅雨の間に

1994年 7月 雷近し電柱伝いに歩を速め

1994年 7月 信号待ちパット暑からむ吐息ひとつ

1994年 8月 盆明けの小仏越えむ日の出前に

1994年 8月 移植されし植木に辛しこの日照

1994年 9月 まむし道の立て札飾る葛の花

1994年 9月 芋掘りて美瑛のパッチは土の色

1994年 9月 秋まだきシリコンバレーは金の山


当期の頁冒頭

次期の頁冒頭