1994年下期の出来事

 応用ソフトウェアのシステム事業本部は、担当して2期目に目に見えて変わってきた。期初
に示した目標の副題に「変貌する本部」を謳った。1995年2月1日には「泥沼時代から建設時代
へ」と宣言した。上期は7期ぶりに辛うじて赤字予算を達成したが、下期は赤字ながら8期ぶ
りに予算より改善した実績を残すことが出来た。これに最も貢献したのは、稼ぎ頭の事業部長
から赤字事業部の長を買って出てくれた飯田氏であった。私が1週間ごと2週間ごとにチャレ
ンジしフォローしてきたことを毎日毎時間もっと木目細かく徹底してやって頂いたので、これ
で飛躍的に文化革命が進んだ。しかし残念にも驚いたことに年が明けてから体に不調を来たし
不治の病でついに5月には還らぬ人となった。下期初めに東芝から小川弘氏が入社された。難
しい大プロジェクトが困難に陥った時の快刀乱麻を断つ切れ味を期待していたのだが、実際に
は飯田事業部長を助け、氏の亡き後はその路線を継承発展させた。

 次に大きかったのは減員効果である。余剰人員があると遊ばせるよりはと不利な受注をする
ことにもなるし、2人で済む仕事に3人投入して損益を悪化させやすい。技術のある人は何人
居ても余剰にはならないが、古い技術しか持たない技術者が問題である。赤字事業部は1年間
で人員を三分の二にした。本部全体の人数もサービス分野へのシフトでかなり減らした。中島
業務部長が総務と連携してあまり好まれないこの推進と再配置に最も苦労した。

 開発取締役、表取締役を中心に、大規模な物件も小さなものも、各責任者はその損益改善に
色々と知恵を使い折衝し努力した。南条氏の営業折衝力には年期が感じられた。

 いくつかの新しい施策を導入した。上期の反省として、各位も私自身も日々忙しく一生懸命
働いた反面、明日のための布石がほとんど進まなかったことがあるので目標管理を充実した。
毎月の目標を立て毎月フォローすることにすれば忙しさにとりまぎれることはないだろうとい
う考えである。私自身の目標と実績は公表することによって自分のフォローとした。

 あまりにも多くの技術者がぬるま湯にあって勉強しないのに業を煮やして、(1) COBOLのみ、
(2)プログラミングのみ、(3) 情報処理技術者の資格なし、という3条件の技術者だけを集め
た部を新設し、教育に注力すると共に奮起を求めた。檄を飛ばした薬が強すぎて差別処遇では
ないかと労働組合が問題視した。「本人達のためを考えた愛の施策だ」と強弁したが「誰も愛
などとは見ていない」と社長や総務から大いに叱られ、中島業務部長が修復に骨を折ってくれ
た。当時書いてもらった部員の感想文を見ると、嫌々書いた世をすねた文から、目が覚めたか
ら頑張るというのまで色々あった。結局三分の一は奮起してくれなかったが、部の過半数と部
外に緊張が走り、技術習得への努力となり、1年後にこの部を解消再編するまでに情報処理技
術者試験の合格者が急増した。ショック療法はその時点では気の毒な面があるが、中期的に見
れば会社は勿論本人達にも善政になったと私は勝手に思っている。

 組織の損益を厳しく追求する一方で、人間模様や年齢構成など組織の諸般の事情で組織内に
位置づけし難い人は遊撃隊を新設して集めた。私自身が定期的に何度も個別に面談して悩みを
聞き、技術的あるいは人生論的なアドバイスを差し上げ、希望と適性に応じた再配置努力をし
た。一方では売れる単価で仕事を社内外から受注する努力を中島業務部長が進めた。ハッピー
な再配置が出来たケースも多々あるが、必ずしもベストの環境を用意できていないケースの方
が多いのは残念である。

 下期から始まって毎期プログラミングスキル調査を3回やった。調査が主目的ではなく、技
術者と技術管理者に方向と刺激を与えるのが目的である。横に技術の種類、縦に程度を置いた
表の各交点に技術者としての市場価値を反映する点数がある。各自がその点数を拾って自己採
点し無記名で提出する過程で今何をどの程度勉強すれば自分の商品価値が高まるかを実感して
貰い、また部門ごとの平均値のランキング表を作ることで組織の長の技術教育指向を求める作
戦である。

 2月から半年かけてVisual C++の講義を行った。エリートのツールで誰でも使えるものでは
ないが、当社にも何人かのエリートが必要であるし、講義をすることで私自身の勉強と記憶定
着にもなるだろうと考えたからである。自習を復習する週2時間の講義の形で進めたが、自習
をするほど勉強の好きな人は少なく、二十代を中心に20人余りでスタートしたのが数人に減っ
たが、一応デモプロを作って終了した。デモプロの中では私が作ったIDS型の小型データベー
スが一番出来が良かった。今でも自宅でCD/CD-ROM整理、Folder/Directoryの整理、歳時記、
などに実用している。笑い話だが、或る時生徒ではない若い技術者から「失礼ですが」と電話
が掛かってきて、Visual C++の細かいことを聞いてきた。幸い答えられたものの、二十代の技
術者が六十に近い専務にプログラム言語のことを聞くなって。

 損益の泥沼状態が終わったことを背景に、応用ソフトウェア部隊としては初めて開発費を創
設し1994年下期に策定し翌期から実施した。また設備投資を積極化した。部長が自ら戦略を考
えることが一番大事なので、開発費も設備申請も私が部長プラス1名から直接ヒアリングして
決めた。初めてのことではあり最初はどうしようもない内容の提案しか出て来なかったが、1
年後には提案の7ー8割は鵜呑みにできる内容が出るようになった。この下期に或る部長がTP
機種の追加導入を強く求めたが、よくヒアリングした上で今からTPの増強はまずいと認めなか
った。パソコンなら同額を認めると言ったのだがこの部長は頭に来ていたのかTP以外なら要り
ませんと言い切った。似たような話だが或る事業部長が「パソコンやVisual Basicを使って
見たがやはりメインフレームとCOBOLの方が使いやすいというお客さんの声をよく聞く。また
振り子が戻りますね。」と真顔で言ったのを、潮流と表面波とを混同せぬようにたしなめたこ
とがある。今よりわずか2年前のことである。その後も願望を込めてCOBOL復権の宣託は何度
も社内に登場した。私がコンピュータ業界と付き合った40年間の経験に基づいて卦を立てれば
こういうものは決して潮流とはならない。そう断言するだけで数千万円の節約になる。卦と言
っても私は最新のCOBOLを自分で使ってみて言っているのだから易学上はカンニングである。

 1995年の正月に思い付いて電子メイル上で「うつせみ」という随筆の不定期刊行を始めた。
うつせみ=現身=この世に生きる身、うつせみ=空蝉=空なるもの=ソフトウェア? という
心である。元々は、日頃色々業界情報を頂ける東芝の諸氏に当方からお返しできる業務情報が
あまり無いことを心苦しく思い、せめて随筆でもという発想であった。面白くないと思う人は
無視するだろうが、面白いと思う人だけが反応をよこすので、評判がよいのかと自惚れて興に
乗り、1ー2週間に1ー2本発行するようになり、今日に至っている。1995年下期からは「テ
クノうつせみ」というカテゴリーも加えた。その心は、持ち帰って奥様に見せている人も居る
と知ってこれは奥様用ではないですよと明示するためであった。東芝情報システム社内でも、
メイルの普及と共にかなりの部数を配布するようになったが、岡本社長と萬支社長以外からは
ほとんど反応が無いのも社風だろうか。面白くもないものを送りつけては申し訳ないから、一
度送付の是非を問うたら、全員から送付継続希望が秘書にあったという。噂を聞いて社外の友
人からも送付リクエストがあった。一部は私のインターネット個人頁にも掲載してある。東芝
の管理者に毎月配布する「管理者ノート」に「視座」という随筆の頁がある。東芝に居た頃か
ら時々頼まれて書いていたのが、東芝情報システムに移ってからも2ー3ヶ月に1回寄稿要請
を頂いている。私は書くことは好きだし、伝えたい情報も沢山ある。

 1月17日の阪神淡路大震災は悲しい出来事であったが、幸い知人に大した被害は無かった。
東芝の某氏のご母堂は地震の直後に東京の息子さんに電話されたのですぐつながったそうだ。
息子さんは直ちにあるだけの容器に水を入れるようにご母堂に言い、すぐお迎えに行ってご母
堂を東京にお連れしたので交通渋滞にも会わなかったという。「すぐ動くべきものですねえ」
という賢明な息子さんを持ったご母堂は幸いであった。

 上期にVisual Basicで自作したソフトウェアで初めて年賀状を処理した。全員に活字ながら
パーソナルなコメントを加えて投函するため、宛先のカテゴリー毎にコメントの例文を保存し
検索再利用できるようにした機能や、宛先のお子様の名前のような個人情報を記録する機能や
来信の有無が素早く登録できる機能などが有効で、能率が格段に上がった。


1994年10月 黄金の田 緑にぞ映ゆ故国なり

1994年10月 秋風を切りて止まりぬ島グリーン

1994年10月 快音でパーオン成りぬ日本晴

1994年10月 チョロ3発どけ赤トンボ次を見よ

1994年11月 錦木に感度の差あり紅葉時

1994年11月 天高く肥ゆ古えの兵馬俑

1994年11月 唐松の落葉時雨や黄金雨

1994年11月 マドンナと長き夜短しクラス会

1994年11月 天高し競う二本の飛行雲

1994年12月 巨大なる落葉見上げれば木蓮なり

1994年12月 葉落とせば花芽の白し花木蓮

1994年12月 山道の散歩真白き冬椿

1995年 1月 風邪なれど元朝快晴いざ行かむ

1995年 1月 謙虚ならむやや小さめの金だるま

1995年 1月 餌を漁る栗鼠の足跡雪に虚し

1995年 2月 遠目にも白し朝日に梅咲きぬ

1995年 2月 託されし予期せぬ義理チョコ手に重し

1995年 2月 雪晴や羽音キュンキュン鳥一羽

1995年 2月 夕べより岩肌増えぬ雪の嶺

1995年 3月 水仙の霜貫きて芽生えたり

1995年 3月 黒きほどに澄める青空雪の嶺

1995年 3月 全山の蜘蛛の巣に露凍りたる


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1995年上期の出来事

 上期の冒頭に、担当の応用ソフトウェアの本部の1994年度総括と1995年度のキックオフ大会
を開いた。赤字の癖に予算を達成したくらいで有頂天になるのも困るが、予算達成を機会に自
信と勢を付けたい。そこで浄財を集め全員に声をかけて日進町ビル12階で立食パーティーを開
いたところ、会社幹部の一部も参加され激励して下さった。
  誇=損益の大幅改善と予算達成、恥=なお唯一の赤字本部、望=黒字化が射程距離
で「誇・恥・望」を開催の趣旨とした。若い人を中心に大いに盛り上がり1995年度は明るい気
がしてきた。

 しかし祈り虚しく飯田事業部長が不治の病でついに還らぬ人となられ、私は週報に次のよう
な文を掲げ哀悼の意を表した。

 飯田事業部長の葬儀を先頭に立って取り仕切った平田事業部長が、日ならずして蜘蛛膜下出
血で倒れられた。ゴルフの翌日の運動会の最中に気分が悪くなったとのことだが、当然仕事上
の心労もあったに違いない。今もって快復がはかばかしくないのが無念である。

 飯田事業部長が亡くなられた後、入社して日の浅い小川弘氏が急に事業部長ではという人々
の心を気にする向きがあって、私が事業部長を兼任した。但し日常の実務は小川氏にお任せし、
月1度の部長会と生産会議に出席するだけとした。

 本社の応用ソフトウェア事業の業績改善が顕著になってきたので、あと当社に残る唯一の赤
字事業である地方ソフトウェア事業の改善に注力せぬ限り当社の発展はないと確信し、使命感
を持った。その手段として、本部の幹部を支社店ごとに任命した地方ソフトウェア支援担当を
作り、毎月会議で施策検討とフォローを行った。しかし(東芝と違って当社は)支社店は独立
プロフィットセンタだから直接の担当でもないし、地方には何をされるのかとの警戒心もある
し、支社店担当兼任の社長からは激励の意味で支社店長は自主性をもって頑張れとのご指導が
出るし、予想通り難産でもあり発育もよくなかった。支援担当には、手足を縛って頑張れと言
っているようなもので、申し訳なかったが、それでも有能な人達であるから少しずつは進展が
あり、気の短い私のネイティヴモードよりは緩やかな改革で緩やかな成果を期待するモードと
なった。

 8月には当社始まって以来の試みとして社外向け技術展TJフェアを川崎本社で開催し好評を
得た。リーダ福田取締役の努力とセンスであった。

 情報処理技術者試験の2種合格者15名、1種合格者21名がわが本部から出た。武藤部長の粘
り強いフォローと各管理者の努力のたまものである。全員に対して自筆のおめでとうカードを
休日に書いて送った。また上級合格者3名には幹部との弁当会食会を用意した。

 上期の終わりに調査した第2回のプログラミングスキル調査では、半年前の第1回に比べて
新技術シフトが進んでおり、従って評価点の分布は第1回がスキージャンプ台型(悪い点の分
布が高い)から、第2回は鯨型への変化が見えた。

 今までお世話になっていた原純子さんが結婚されたのを機に変わられ、後を君嶋里絵さんが
継いでくれた。情報処理技術者資格2種を持つキーボードが滅法速い技術者を無理に頂戴して
しまった。体調の良い日には目がやや青く見える健康優良児で、田園調布のお嬢さんである。
私は聞いたことがないが英語の電話も応答して貰えるから助かった。但し相手が教科書通りに
言ってくれないのが悩みだということだった。米国にはCasual Dayといって大抵は金曜日に
ラフな服装でよい日がある会社が多いが、週に1日金曜日くらいは今や廃止された制服ではな
く私服でおしゃれしてよとお願いした。

 5月連休にはワイフとハンガリー・チェコに旅した。ガイドブックで脅かされたので珍しく
ツアーに参加したが、急速に開けており英語か独語で単独旅行も可能であった。ツアーの制約
もあったが能率は良かった。ブダペストでは早朝温泉プールに連れて行って貰ったし、ブラテ
ィスラヴァではドナウ川に架かる橋の橋脚のてっぺんのレストランで昼食をとった。プラハは
世界一美しい街だと確信した。


1995年 4月 あと一息頑張れこぶしいざ咲かん

1995年 4月 雨上がり日向水木の重たげなる

1995年 4月 春来たれり目覚めよと木々を巡る鳥

1995年 4月 花むしろ朝日に白し通勤路

1995年 5月 尖塔とマロニエ白く天を指し

1995年 5月 聖堂の尖塔高しリラの花

1995年 5月 こぼれ咲きぬ遅れ山桜ここにありと

1995年 6月 緑風や受付嬢の衣替え

1995年 6月 高架なればそこここに見ゆ枋の花

1995年 6月 パノラマの遠嶺煙ぶる梅雨曇

1995年 6月 美しの森燃え立ちぬレンゲツツジ

1995年 7月 緑風をはらみて去りぬパラグライダ

1995年 7月 引き寄せれば泰山木の花各様

1995年 7月 パソコンをしばし離れて草を取り

1995年 7月 楽しげに負けゆく野球 風暑し

1995年 8月 岩山を仰ぎ躊躇う夏登山

1995年 8月 一転し夕焼け航路を横切らむ

1995年 8月 鳥の巣に盗用されし破れ網戸

1995年 8月 蜜蜂の大群飛べり虹型に

1995年 9月 同数の蜜蜂招きし萩の花

1995年 9月 フラッシュに月下美人の花眩し

1995年 9月 転勤を告げ稔り田の中を戻り

1995年 9月 訪れし蜂の数だけ萩実り


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