応用ソフトウェアのシステム事業本部は、担当して2期目に目に見えて変わってきた。期初
に示した目標の副題に「変貌する本部」を謳った。1995年2月1日には「泥沼時代から建設時代
へ」と宣言した。上期は7期ぶりに辛うじて赤字予算を達成したが、下期は赤字ながら8期ぶ
りに予算より改善した実績を残すことが出来た。これに最も貢献したのは、稼ぎ頭の事業部長
から赤字事業部の長を買って出てくれた飯田氏であった。私が1週間ごと2週間ごとにチャレ
ンジしフォローしてきたことを毎日毎時間もっと木目細かく徹底してやって頂いたので、これ
で飛躍的に文化革命が進んだ。しかし残念にも驚いたことに年が明けてから体に不調を来たし
不治の病でついに5月には還らぬ人となった。下期初めに東芝から小川弘氏が入社された。難
しい大プロジェクトが困難に陥った時の快刀乱麻を断つ切れ味を期待していたのだが、実際に
は飯田事業部長を助け、氏の亡き後はその路線を継承発展させた。
次に大きかったのは減員効果である。余剰人員があると遊ばせるよりはと不利な受注をする
ことにもなるし、2人で済む仕事に3人投入して損益を悪化させやすい。技術のある人は何人
居ても余剰にはならないが、古い技術しか持たない技術者が問題である。赤字事業部は1年間
で人員を三分の二にした。本部全体の人数もサービス分野へのシフトでかなり減らした。中島
業務部長が総務と連携してあまり好まれないこの推進と再配置に最も苦労した。
開発取締役、表取締役を中心に、大規模な物件も小さなものも、各責任者はその損益改善に
色々と知恵を使い折衝し努力した。南条氏の営業折衝力には年期が感じられた。
いくつかの新しい施策を導入した。上期の反省として、各位も私自身も日々忙しく一生懸命
働いた反面、明日のための布石がほとんど進まなかったことがあるので目標管理を充実した。
毎月の目標を立て毎月フォローすることにすれば忙しさにとりまぎれることはないだろうとい
う考えである。私自身の目標と実績は公表することによって自分のフォローとした。
あまりにも多くの技術者がぬるま湯にあって勉強しないのに業を煮やして、(1)
COBOLのみ、
(2)プログラミングのみ、(3) 情報処理技術者の資格なし、という3条件の技術者だけを集め
た部を新設し、教育に注力すると共に奮起を求めた。檄を飛ばした薬が強すぎて差別処遇では
ないかと労働組合が問題視した。「本人達のためを考えた愛の施策だ」と強弁したが「誰も愛
などとは見ていない」と社長や総務から大いに叱られ、中島業務部長が修復に骨を折ってくれ
た。当時書いてもらった部員の感想文を見ると、嫌々書いた世をすねた文から、目が覚めたか
ら頑張るというのまで色々あった。結局三分の一は奮起してくれなかったが、部の過半数と部
外に緊張が走り、技術習得への努力となり、1年後にこの部を解消再編するまでに情報処理技
術者試験の合格者が急増した。ショック療法はその時点では気の毒な面があるが、中期的に見
れば会社は勿論本人達にも善政になったと私は勝手に思っている。
組織の損益を厳しく追求する一方で、人間模様や年齢構成など組織の諸般の事情で組織内に
位置づけし難い人は遊撃隊を新設して集めた。私自身が定期的に何度も個別に面談して悩みを
聞き、技術的あるいは人生論的なアドバイスを差し上げ、希望と適性に応じた再配置努力をし
た。一方では売れる単価で仕事を社内外から受注する努力を中島業務部長が進めた。ハッピー
な再配置が出来たケースも多々あるが、必ずしもベストの環境を用意できていないケースの方
が多いのは残念である。
下期から始まって毎期プログラミングスキル調査を3回やった。調査が主目的ではなく、技
術者と技術管理者に方向と刺激を与えるのが目的である。横に技術の種類、縦に程度を置いた
表の各交点に技術者としての市場価値を反映する点数がある。各自がその点数を拾って自己採
点し無記名で提出する過程で今何をどの程度勉強すれば自分の商品価値が高まるかを実感して
貰い、また部門ごとの平均値のランキング表を作ることで組織の長の技術教育指向を求める作
戦である。
2月から半年かけてVisual C++の講義を行った。エリートのツールで誰でも使えるものでは
ないが、当社にも何人かのエリートが必要であるし、講義をすることで私自身の勉強と記憶定
着にもなるだろうと考えたからである。自習を復習する週2時間の講義の形で進めたが、自習
をするほど勉強の好きな人は少なく、二十代を中心に20人余りでスタートしたのが数人に減っ
たが、一応デモプロを作って終了した。デモプロの中では私が作ったIDS型の小型データベー
スが一番出来が良かった。今でも自宅でCD/CD-ROM整理、Folder/Directoryの整理、歳時記、
などに実用している。笑い話だが、或る時生徒ではない若い技術者から「失礼ですが」と電話
が掛かってきて、Visual C++の細かいことを聞いてきた。幸い答えられたものの、二十代の技
術者が六十に近い専務にプログラム言語のことを聞くなって。
損益の泥沼状態が終わったことを背景に、応用ソフトウェア部隊としては初めて開発費を創
設し1994年下期に策定し翌期から実施した。また設備投資を積極化した。部長が自ら戦略を考
えることが一番大事なので、開発費も設備申請も私が部長プラス1名から直接ヒアリングして
決めた。初めてのことではあり最初はどうしようもない内容の提案しか出て来なかったが、1
年後には提案の7ー8割は鵜呑みにできる内容が出るようになった。この下期に或る部長がTP
機種の追加導入を強く求めたが、よくヒアリングした上で今からTPの増強はまずいと認めなか
った。パソコンなら同額を認めると言ったのだがこの部長は頭に来ていたのかTP以外なら要り
ませんと言い切った。似たような話だが或る事業部長が「パソコンやVisual Basicを使って
見たがやはりメインフレームとCOBOLの方が使いやすいというお客さんの声をよく聞く。また
振り子が戻りますね。」と真顔で言ったのを、潮流と表面波とを混同せぬようにたしなめたこ
とがある。今よりわずか2年前のことである。その後も願望を込めてCOBOL復権の宣託は何度
も社内に登場した。私がコンピュータ業界と付き合った40年間の経験に基づいて卦を立てれば
こういうものは決して潮流とはならない。そう断言するだけで数千万円の節約になる。卦と言
っても私は最新のCOBOLを自分で使ってみて言っているのだから易学上はカンニングである。
1995年の正月に思い付いて電子メイル上で「うつせみ」という随筆の不定期刊行を始めた。
うつせみ=現身=この世に生きる身、うつせみ=空蝉=空なるもの=ソフトウェア? という
心である。元々は、日頃色々業界情報を頂ける東芝の諸氏に当方からお返しできる業務情報が
あまり無いことを心苦しく思い、せめて随筆でもという発想であった。面白くないと思う人は
無視するだろうが、面白いと思う人だけが反応をよこすので、評判がよいのかと自惚れて興に
乗り、1ー2週間に1ー2本発行するようになり、今日に至っている。1995年下期からは「テ
クノうつせみ」というカテゴリーも加えた。その心は、持ち帰って奥様に見せている人も居る
と知ってこれは奥様用ではないですよと明示するためであった。東芝情報システム社内でも、
メイルの普及と共にかなりの部数を配布するようになったが、岡本社長と萬支社長以外からは
ほとんど反応が無いのも社風だろうか。面白くもないものを送りつけては申し訳ないから、一
度送付の是非を問うたら、全員から送付継続希望が秘書にあったという。噂を聞いて社外の友
人からも送付リクエストがあった。一部は私のインターネット個人頁にも掲載してある。東芝
の管理者に毎月配布する「管理者ノート」に「視座」という随筆の頁がある。東芝に居た頃か
ら時々頼まれて書いていたのが、東芝情報システムに移ってからも2ー3ヶ月に1回寄稿要請
を頂いている。私は書くことは好きだし、伝えたい情報も沢山ある。
1月17日の阪神淡路大震災は悲しい出来事であったが、幸い知人に大した被害は無かった。
東芝の某氏のご母堂は地震の直後に東京の息子さんに電話されたのですぐつながったそうだ。
息子さんは直ちにあるだけの容器に水を入れるようにご母堂に言い、すぐお迎えに行ってご母
堂を東京にお連れしたので交通渋滞にも会わなかったという。「すぐ動くべきものですねえ」
という賢明な息子さんを持ったご母堂は幸いであった。
上期にVisual Basicで自作したソフトウェアで初めて年賀状を処理した。全員に活字ながら
パーソナルなコメントを加えて投函するため、宛先のカテゴリー毎にコメントの例文を保存し
検索再利用できるようにした機能や、宛先のお子様の名前のような個人情報を記録する機能や
来信の有無が素早く登録できる機能などが有効で、能率が格段に上がった。
外国から日本に帰ると何と美しい国だろうと思ってしまう。9月にシリコンバレーからの
帰路成田上空から見て、黄金色の田と緑の森が映える美しい故国に帰ってきたと思った。
上期は幸い予算損益達成の金星を得たので勇気百倍して、本部目標の副題に「変貌する本
部」を掲げて下期に望む。変貌を宣言することによって自らの変貌努力への外圧を高め、
加速していきたい。下期も金星で着地したいものだ。
1994年10月 秋風を切りて止まりぬ島グリーン
会社所有の会員権で後日私が持たせて頂いた栃木県のプレステージでは、最終ホールのグ
リーンが池の中にある。今回は池を忘れて打ったら珍しくピタリとオンした。快哉!
コンピュータ事業は、(1) システムコンポーネントを社内だけでなく競合する社外にも広
く供給する仕事と、(2) 社内だけでなく社外からもシステムコンポーネントを調達してシ
ステムを構築する仕事とに分化し、互いに矛盾するので、トリッキーな社内調整が必要。
1994年10月 快音でパーオン成りぬ日本晴
プレステージでドライバがまともに飛び、フェアウェイウッド6番がまたジャストミート
して、長いミドルホールで珍しくツーオンできたので、気分よく快晴を見上げた。
9月の出張で見つけたMosaic Communications(後にNetscape Communicationsと改名)の
ブラウザに高橋取締役が飛びつき、当社が日本で最初の販売契約を結ぶ。資金の要る本契
約は東芝に頼らざるを得ないが、その前にQuick Starterとして当社が販売開始する。
1994年10月 チョロ3発どけ赤トンボ次を見よ
この日のゴルフはフェアウェイウッドが不調で連続3回チョロった。諦めてアイアンに持
ち替えて今度こそと身構えた時、ボールに赤トンボが止まり私を馬鹿にした。
春の訪れは小さな兆しから始まるように、事業改善の小さな兆しを見たと思うことも増え
ているが、まだ冬将軍は力強い。飯田新事業部長の週報には自己批判と焦燥感がある。今
まではともかく、これからは「変貌の本部」としたい。
1994年11月 錦木に感度の差あり紅葉時

八ケ岳中腹にはニシキギが多く赤い錦のような見事な紅葉を見せる。しかし場所や日当た
りや個体差によって、まだ緑の葉から真っ赤な葉までの各段階が見られる。
下期から、(1) COBOLのみ、(2) プログラミングのみ、(3) 情報処理技術者の資格なし、
という3条件の未熟練技術者だけを集めた部を新設し、奮起を求めた。感想文を見ると、
嫌々書いた世をすねた文から、目が覚めた、これから頑張るというのまで色々あった。
1994年11月 天高く肥ゆ古えの兵馬俑
兵馬俑(へいばよう)を含む秦の始皇帝時代の遺物が世田谷美術館に展示され、ワイフと
見に行った。大変な人混みの中、力強い筋肉を持つ陶器の馬数頭が最も迫力があった。
ドイツ生まれの汎用アプリケーションパッケージをビジネスショーで見かけて、平田事業
部長に折衝して頂いたが、既に引きが強いと見えて頭が高く金も高く、わが射程距離には
入らない。東芝が契約する可能性に賭けることとした。(結局東芝も契約しなかった。)
1994年11月 唐松の落葉時雨や黄金雨


唐松の語源は枯れ松であろう。秋には黄金色にもみじしやがて落葉する。秋晴れの空を背
景に黄金色の時雨のように落葉が降り注ぐ風情は美しくもの悲しい。
わが応用ソフトウェアの本部とシステム商品販売の本部とがもっと協力すれば生産管理シ
ステムがもっと売れるのに、金になる話を無数に失っていると聞き、現状を勉強させて貰
った。要は受託作業文化と商品販売文化の不整合と理解し対策した。(しかし不発。)
1994年11月 マドンナと長き夜短しクラス会
卒業以来43年ぶりの中学校の同窓会で山口県光市に行った。心配だったが程なく少年時代
に逆戻り出来て話が弾んだ。二次会三次会と夜半までマドンナが付き合ってくれた。
どうせ山口県に行くと知らせたら、広島の支店から全社員を対象に最近のソフトウェアの
動向と心構えについて講演してくれとの要請があり、最新トピックスと自己研鑚が必須の
時代であることを強調した。ホテルでワイフと合流し休日を山口県観光に費やした。
1994年11月 天高し競う二本の飛行雲
八ケ岳上空は航路の一つになっていて、音もせぬ上空をジェット機がよく飛ぶ。晩秋には
必ず飛行雲を引いている。しかし高度が違うのだろうか二本並ぶのは珍しい。
11月の月例事業会議は明るかった。ソフトウェア商品とシステム商品の二つの本部が競う
かのように勢がある。応用ソフトウェアのわが本部は数字こそ良くないものの可視性は著
しく改善された。緩やかな景気回復もあるが、STAR21作戦の施策の成果と信じたい。
1994年12月 巨大なる落葉見上げれば木蓮なり
川崎の線路沿いの公園道の落葉をサクサクと踏んで会社に急ぐうち、数枚の茶色の巨大な
落葉を見つけた。こんなに大きい葉は何だろうと見上げたら木蓮の木があった。
東芝のエンジニアリング関係会社がシステム技術展を開いたのを見学した。オブジェクト
指向CADという展示があり、どういう意図か伺ったら、重要新技術と見た技術本部の主導
で各部門がモデルプロジェクトを進めている一つだとのこと。さすが立派である。
1994年12月 葉落とせば花芽の白し花木蓮
公園道のモクレンはとうとう葉が無くなってしまった。よく見ると来春咲くはずの花芽が
既に用意されていて白く光っている。希望の光だ。
第1回の今期損益見込みを出すに当たり、各事業部の生産会議に全部出席して損益状況を
把握した。事業部損益はまだ予算にはかなり遠い感触であったが、減員効果・コンパクト
化効果がかなり出て、本部全体としては予算達成意欲が湧く数字が出せた。
1994年12月 山道の散歩真白き冬椿
好天の日、ワイフと自宅の裏山の昔の野猿峠ハイキングコースを散歩した。真っ白で清楚
な冬椿が咲いていた。冬景色の中で白椿のみ鮮やかだった。
今期損益見込みの予算未達成分を取り戻すべく、各事業部の目標と具体的アクションアイ
テムを整理して要請した。厳しい環境の中だが、何をやれば目標が達成出来るかを鮮明に
示したつもり。
1995年 1月 風邪なれど元朝快晴いざ行かむ
年末の内に風邪を引いてしまって体調がよくない上に、大晦日は「紅白」から「ゆく年く
る年」まで見てしまうから、元旦の朝は元気がない。しかし快晴、さあ出かけよう。
下期の目標に「変貌する本部」という副題をつけたが、幸い少しずつ変貌の兆しが見え、
相対的には喜ばしい。しかし絶対的にはまだまだである。世の中の速い動きについて行け
ているのかさえ定かではない。新年にあたり今一度決意を新たにして変革に取り組む。
1995年 1月 謙虚ならむやや小さめの金だるま
毎年諏訪大社の上社か下社かでだるまを買って一年の願望を目玉に書き込む。今年はやや
謙虚にと小さめのだるまとしたが、しかし期するところあって金色のだるまとした。
年末に予算達成の望みが若干出たので、そのための改善額とアクションアイテムを事業部
ごとに具体的に指示したが、今月はそれに近い数値を各部門で出してくれたので、月例に
は予算通りの損益見込みで望む。しかしまだ水面下の世界であり、立派だがまだまだ。
1995年 1月 餌を漁る栗鼠の足跡雪に虚し
八ケ岳は地形的理由で雪量は少ないが降ったら融けない。リスの足跡があった。右に行っ
て雪をほじり、左の木の根元を漁り、餌を探したようだが、この雪では餌もあまり無い。
上期の反省から下期は目標管理をガッチリやり、毎月の目標を立ててフォローしている。
毎月は紙を貰っているだけだが今回は細かく聞いた。意外に進んでいることに喜んだが、
労力で頑張れる領域が進んでいるのに対して、考え創り出す仕事は収穫に乏しい。
1995年 2月 遠目にも白し朝日に梅咲きぬ
川崎の線路沿いの公園道に入った途端、遠くに白いものが見えた。胸踊らせて近付くと案
の定、今年初めて見る白梅二三輪が朝日に光っているのであった。
2月1日の本部管理職昼礼で「泥沼時代から建設時代へ」を宣言した。「どこまで続くぬか
るみぞ」の時代は終わり、赤字でも計算できる赤字になった。まだ遠いけれども目標は見
えた。これからは「建設」しないとプラスにならぬ。まずは基礎工事だ。
1995年 2月 託されし予期せぬ義理チョコ手に重し
日進町ビルの玄関に入ろうとして若奥さんとすれ違った。用事を済ませてTJビルに戻ると
その人のチョコレートが受付に託されていた。(多分悪戯心で、翌年はくれなかった)
このまま努力すればわが本部は良くなると内心確信した。当社を良くするために次にやる
べきは、わが本部と同病の地方ソフトウェア事業である。担当にはなっていないし、手出
しをするようになろうとは予測もしなかったが、是非やるべきだとの天命を聞いた。
1995年 2月 雪晴や羽音キュンキュン鳥一羽
八ケ岳の快晴の朝、陽にキラキラ光る雪の結晶を踏みしめながら散歩した。雪が消音材と
なって静かな中、キュンキュンと空気を切る音を立てて羽ばたく鳥が通り過ぎて行った。
或る顧客の物件を失注し作戦展開の機会が通り過ぎて行ったが、首を傾げる営業と「失注
御礼」に回り勉強になった。当社から高度の提案があり新しものがり屋にはうけたが、俺
自身は使いこなせないレベルだったからボツにしたと、情報システム部長の明解な弁。
1995年 2月 夕べより岩肌増えぬ雪の嶺

山小屋を見下ろす阿弥陀岳の頂上部分は、登攀に30分はかかる岩山である。春が近付くと
雪に覆われた岩肌が段々黒く露わになってくる。アレッ昨夕見た時より岩肌が多い。
2月の月例では依然赤字の範囲ではあるが予算より若干の積み増し見込みを報告した。上
期は7期ぶりに予算キープ、下期は8期ぶりに予算より改善となりそうだが、緩やかな仕
事増と体質の改善があるとは言え、まだまだ黒字化は遠い。
1995年 3月 水仙の霜貫きて芽生えたり
川崎の線路沿いの公園道は高いビルの北側なので、周囲よりも春は遅い。しかし霜柱を貫
くようにして水仙が芽生えているのを発見した。
3月1日の本部管理職朝礼では、「檄」と書いた一文を配布し、やや語気激しく自戒を求め
た。予算以上の業績が出そうなのはご同慶だが、早くも一部に、特に上の方の一部に、奢
りが見えると他本部から聞こえて来たからである。
1995年 3月 黒きほどに澄める青空雪の嶺
空中の粒子が短波長の光を乱反射して空を青く見せているのだから、粒子の少ない高山や
ジェット機から見る空は黒い。八ケ岳中腹でも日によっては濃紺色の空が雪嶺に映える。
赤字事業部の今期目標の一つ「事業部黒字化計画」を聞き、実行可能なクリアな計画と喜
んだ。要は(1) 顧客のご予算をよく伺い予算に入るように仕事をする、(2) 単価の逆ザ
ヤは低単価の外注とのミックスで対処、という常識を徹底すれば黒字化できると。
1995年 3月 全山の蜘蛛の巣に露凍りたる
珍しい現象を八ケ岳で初めて見た。クモの巣に朝露が連なるのはよく見る光景だが、次に
気温が下がりそれらが白く凍ったのである。クモの巣がそこら中にあることが分かった。
3月の月例では赤字予算を64%に縮めた見込みを報告できた。仕事量の増大もあるが全員の
損益意識向上と努力による。業態改善は来期に持ち越す課題として残っているから、吹け
ば飛ぶ程度の改善でしかないが、それが組織のあらゆる所で見られるのが強味。
上期の冒頭に、担当の応用ソフトウェアの本部の1994年度総括と1995年度のキックオフ大会
を開いた。赤字の癖に予算を達成したくらいで有頂天になるのも困るが、予算達成を機会に自
信と勢を付けたい。そこで浄財を集め全員に声をかけて日進町ビル12階で立食パーティーを開
いたところ、会社幹部の一部も参加され激励して下さった。
誇=損益の大幅改善と予算達成、恥=なお唯一の赤字本部、望=黒字化が射程距離
で「誇・恥・望」を開催の趣旨とした。若い人を中心に大いに盛り上がり1995年度は明るい気
がしてきた。
しかし祈り虚しく飯田事業部長が不治の病でついに還らぬ人となられ、私は週報に次のよう
な文を掲げ哀悼の意を表した。
[挽歌]
飯田氏の早逝は、僅か1.5年のお付き合いだった私にも大きな衝撃である。昨秋買っ
て出る如くに最も困難な仕事を担当され、やり甲斐のある仕事だと喜ばれ、僅かの間に
業態にも文化にも大きな足跡を残された。我々が志を継がなければ罰が当たる。氏のご
冥福を心から祈念する。
飯田事業部長の葬儀を先頭に立って取り仕切った平田事業部長が、日ならずして蜘蛛膜下出
血で倒れられた。ゴルフの翌日の運動会の最中に気分が悪くなったとのことだが、当然仕事上
の心労もあったに違いない。今もって快復がはかばかしくないのが無念である。
飯田事業部長が亡くなられた後、入社して日の浅い小川弘氏が急に事業部長ではという人々
の心を気にする向きがあって、私が事業部長を兼任した。但し日常の実務は小川氏にお任せし、
月1度の部長会と生産会議に出席するだけとした。
本社の応用ソフトウェア事業の業績改善が顕著になってきたので、あと当社に残る唯一の赤
字事業である地方ソフトウェア事業の改善に注力せぬ限り当社の発展はないと確信し、使命感
を持った。その手段として、本部の幹部を支社店ごとに任命した地方ソフトウェア支援担当を
作り、毎月会議で施策検討とフォローを行った。しかし(東芝と違って当社は)支社店は独立
プロフィットセンタだから直接の担当でもないし、地方には何をされるのかとの警戒心もある
し、支社店担当兼任の社長からは激励の意味で支社店長は自主性をもって頑張れとのご指導が
出るし、予想通り難産でもあり発育もよくなかった。支援担当には、手足を縛って頑張れと言
っているようなもので、申し訳なかったが、それでも有能な人達であるから少しずつは進展が
あり、気の短い私のネイティヴモードよりは緩やかな改革で緩やかな成果を期待するモードと
なった。
8月には当社始まって以来の試みとして社外向け技術展TJフェアを川崎本社で開催し好評を
得た。リーダ福田取締役の努力とセンスであった。
情報処理技術者試験の2種合格者15名、1種合格者21名がわが本部から出た。武藤部長の粘
り強いフォローと各管理者の努力のたまものである。全員に対して自筆のおめでとうカードを
休日に書いて送った。また上級合格者3名には幹部との弁当会食会を用意した。
上期の終わりに調査した第2回のプログラミングスキル調査では、半年前の第1回に比べて
新技術シフトが進んでおり、従って評価点の分布は第1回がスキージャンプ台型(悪い点の分
布が高い)から、第2回は鯨型への変化が見えた。
今までお世話になっていた原純子さんが結婚されたのを機に変わられ、後を君嶋里絵さんが
継いでくれた。情報処理技術者資格2種を持つキーボードが滅法速い技術者を無理に頂戴して
しまった。体調の良い日には目がやや青く見える健康優良児で、田園調布のお嬢さんである。
私は聞いたことがないが英語の電話も応答して貰えるから助かった。但し相手が教科書通りに
言ってくれないのが悩みだということだった。米国にはCasual Dayといって大抵は金曜日に
ラフな服装でよい日がある会社が多いが、週に1日金曜日くらいは今や廃止された制服ではな
く私服でおしゃれしてよとお願いした。
5月連休にはワイフとハンガリー・チェコに旅した。ガイドブックで脅かされたので珍しく
ツアーに参加したが、急速に開けており英語か独語で単独旅行も可能であった。ツアーの制約
もあったが能率は良かった。ブダペストでは早朝温泉プールに連れて行って貰ったし、ブラテ
ィスラヴァではドナウ川に架かる橋の橋脚のてっぺんのレストランで昼食をとった。プラハは
世界一美しい街だと確信した。

寒い春である。寒さが何度もぶり返して咲きそうになった花も仲々咲けない。しかしやっ
とコブシの花はもう少しで咲きそうだ。頑張れ。
1994年下期の私の目標管理を評価し公表した。およそ期初目的を達したが、中期的目標が
今ひとつ力が入らない。まず損益達成は赤字ながら予想外に好転した。STAR21作戦推進は
三角、赤字事業部の黒字化計画作成と、明るい職場作りは丸とさせて貰おう。
1995年 4月 雨上がり日向水木の重たげなる
川崎の線路沿いの公園道にはヒュウガミズキが2株あり、可愛らしい黄色の花を無数に付
けている。雨水を蓄えて花がみな重たげである。
私は1年間で全員C言語教育をせよと言うし、現場は1週間も教育に割けないと言うし、
困った教育担当の生活の智恵が手抜きで、3時間の講義と自習という実態になっていたこ
とを発見した。面従腹背を嘆きつつ、しかしC言語は導入だけでよしと私も変心した。
1995年 4月 春来たれり目覚めよと木々を巡る鳥
八ケ岳の森で鳥の動きが活発になってきた。木から木へと楽しげに飛び回る。まだ芽吹き
のない木々に、春だから目覚めよと告げて回っているように見える。
支社店からソフトウェア事業の中期事業計画ローリングのための考え方を出して貰った。
昨春は相当準備した問いかけにも拘らず「現状延長型で頑張ります」という答を貰ってし
まったので内心半ば諦観していたのだが、意外にも改革指向の密度の濃い案が出てきた。
1995年 4月 花むしろ朝日に白し通勤路
川崎の線路沿いの公園道では煉瓦畳にサクラの花びらが敷き詰められ、通勤で通りかかる
と、丁度朝日が差し込んで真っ白に光っていた。大変贅沢な誰も通らない通勤路である。
赤字事業部の予算説明会は自由参加だが半分以上が参加し、「聞く目」をして聞いた。こ
の路線で必ず業績が向上すると期待できる。私から全社状況と事業部への期待、小川事業
部長付から来年度黒字化への今期実行目標、各幹部から担当方針など。
1995年 5月 尖塔とマロニエ白く天を指し

5月連休のブダペストはマロニエの花盛りであった。ドナウ川に向かって白い尖塔が建ち
並ぶ「漁夫の砦」では、塔を背景にマロニエの白い花が同じ形であることに気付いた。
土曜日に出勤し各本部の中期事業計画の中間報告とレビューを行った。1年前より「自分
達の計画」になり具体性があるが、反面近未来に保守的でホッケースティック型である。
本社と地方の応用ソフトウェア事業の改善が柱。優良会社を目指す意気込みやよし。
1995年 5月 聖堂の尖塔高しリラの花

プラハの北にヴィシュフラドというモルダウ川に突き出した岩山と聖堂があって、スメタ
ナの墓もあり、ボヘミア人の心の故郷だという。丁度紫のリラの花が満開であった。
或る英日日英翻訳ソフトウェアのパソコン版が出来たと聞き、1時間ほど試用に行った。
英日翻訳は確かに使えるが、日英は実用的とは言えない。しかしこれは翻訳技術が未熟だ
からということではなく、日本語そのものの性質に問題があることに気付いた。
1995年 5月 こぼれ咲きぬ遅れ山桜ここにありと
八ケ岳の春が遅いと言っても、もうサクラもヤマザクラもとうに花を散らせているのだが
森の中に1本だけヤマザクラが咲いていた。マラソンの最終ランナのように堂々と。
本部の幹部一同で中期事業計画に関するファミリートレーニングを行った。1998年度には
かくありたいという姿が、現状延長型でもなく非現実的でもなくやっと描けたのが、大き
な収穫である。こういうことに多くの人が参加し討議したこと自体が成果だという話も。
1995年 6月 緑風や受付嬢の衣替え
TJビル前のケヤキが緑陰を広げる下を初夏の風を感じながら玄関に入った時、6月1日に衣
替えした受付の宇田川嬢の白いブラウスがやや緑に見え、会釈が格別爽やかだった。
今期本部では、Windows開発ツールのVisual Basicを初級用に、Power BuilderをData-
base多用の本格応用ソフトウェア開発に、延べ百名の教育を行う。前者でWindowsソフト
ウェアが簡単に出来るようになり、後者ではオブジェクト指向が可能となる。
1995年 6月 高架なればそこここに見ゆ枋の花
白くて大きなホウの花だが、見ることは実は難しい。葉が広がった中央に天に向かって咲
くからである。しかし京王相模原線は山を走る高架なのでホウの花があちこちに見える。
中期事業計画ローリングが完成し事業展望が開けた。有馬業務統括部長が先頭に立って進
め、全幹部が土曜出勤して全体をレビューした。昨年は「一部幹部の中計」であったが今
年は「皆の中計」になった。それ程皆が討議したし、討議できる時代認識が出来た。
1995年 6月 パノラマの遠嶺煙ぶる梅雨曇
梅雨の晴れ間に清里の美しの森に登った。八ケ岳から南アルプスにかけての美しいパノラ
マが売り物の場所であるが、生憎甲斐駒ケ岳などアルプスは梅雨曇に霞んでいた。
今期第1回の損益見込みを出したがまだ不透明な部分が多く、心配になって予算引き締め
の指示を出した。しかし予算達成可能の感触もあり将来への投資はキープする。新規事業
領域での引き合い・受注に勢があるのは心強い。私が心配する事業部が入れ替わった。
1995年 6月 美しの森燃え立ちぬレンゲツツジ
美しの森はレンゲツツジの多い丘で、花の時期観光客が増える。下から見上げるとオレン
ジ色の花が丘全体を覆い、丘が燃えているようだ。
幕張でWindows World / Tokyo 95があり勢を感じた。幕張でも5スパンも使う展示会は珍
しい。Winodwsの世界に群がる会社群の展示にWindows周辺で仕事をする人達が見に来て、
一種独特の熱気がある。Business Showよりも真面目なのがよい。
1995年 7月 緑風をはらみて去りぬパラグライダ
入笠(にゅうがさ)山の頂上までドライブした。冬は富士見パノラマスキー場となるゲレ
ンデのてっぺんにパラグライダ愛好者が居て、しばらく風を待って飛び立って行った。
東芝(情制本)の本部技師長以下技術幹部が来訪され、当社との連絡会があった。議論を
はぐらかすことなく真正面から討議して頂いたおかげで双方の考え方がよく認識された。
親睦会でも話がはずみ、皆さん何かを手にし一応ご満足で帰られたと思う。
1995年 7月 引き寄せれば泰山木の花各様
聖蹟桜ヶ丘の都立桜ケ丘公園をワイフと散歩した。新しく公園化した周辺部にまだ小さい
泰山木が何本かあった。花を引き寄せて嗅ぐと木ごとに花の形も違うことに気付いた。
支社店管理者の意識向上をもくろむ有馬業務統括部長と、現状認識に関心がある私とがお
神酒徳利で、札幌、大阪、福岡の3支社店を一巡し、新規事業領域への取り組みに関して
伝統の札幌、営業主導の大阪、技術主導の福岡と、3者3様であることを感じた。
1995年 7月 パソコンをしばし離れて草を取り
日頃は忙しくものを考える環境ではないから、考える書類作りなどは山小屋にパソコンを
持ち込んで作ることが多い。しかし周辺の草が大分伸びたから少し草取りをしよう。
本部の将来に益々自信を持ってしまった私は、支社店のソフトウェア事業の改善に更に使
命感を持った。支社店ごとに症状は異なるものの共通問題もあり、共通施策を描いて見た
中で、本部幹部を地方ごとに任命した地方ソフトウェア事業支援会議の構想を持った。
1995年 7月 楽しげに負けゆく野球 風暑し
東芝関係会社の野球大会に出場する当社のチームを応援に神宮外苑に行った。残念ながら
負けてしまったが、私が昔やっていた頃の野球とは違って、いとも楽しげに負ける。
Softbank社が買収して初めてのInterop展示会が幕張で行われた。ネットワーク関連の各
社が時流に乗って盛況であったが、日本の大手メーカの実質的な手抜きが目立った。その
中で当社は健闘しており、滅びる文化から栄える文化への乗換に希望が持てた。
1995年 8月 岩山を仰ぎ躊躇う夏登山
ワイフと二人で往復13.5時間もかかって日帰りで、八ケ岳の阿弥陀岳と赤岳に登った。阿
弥陀岳の登り30分の岩山を見上げて躊躇し、決心して四つ足でゆっくり登った。
米国のViasoftというIBM COBOLプログラム解析ソフトウェアを勉強した村林課長が、恩人
の東芝の山本技監にお越しを頂き2時間コースでご説明した。東芝マシンに同様なものが
出来ないかとの前からのご下問であるが、最高のノウハウの固まりでとても手が出ない。
1995年 8月 一転し夕焼け航路を横切らむ
房総半島をワイフとドライブし帰路は金谷・横須賀フェリーで夕焼けの東京湾を渡った。
通行の激しい航路を横切るためフェリーは一度海上で一転してタイミングを合わせた。
下期予算のために各事業部の利益計画を単純に足したら大赤字と出た。下期は地方ソフト
ウェアの再建のため地方の数十名を本部で受け取るため経費がかさむ。しかしもう一度考
え直して見よう、先は明るいのだから必ずまともな数字が出るはず。
1995年 8月 鳥の巣に盗用されし破れ網戸
最近どうも自宅に蚊や虫が入ってくるのが不思議だったが手洗いの網戸が破れていた。は
っとして庭から採取して保存したメジロの巣を見ると、案の定その材料になっていた。
東芝中部システムセンターのご要請でSTAR21作戦をご説明した。吉江部長が面白いご質問
をされた。WindowsやOracleを使いこなすノウハウの必要は判るが、他人のふんどしで相
撲を取るのが一体技術者と言えるのかと。
1995年 8月 蜜蜂の大群飛べり虹型に
鬼怒川温泉に近いワイフの郷里への裏道として通った片品村の道路脇で、養蜂家が蜂蜜を
売っていた。巣箱も近くに多数あり、蜜蜂の大群が頭上を虹型に飛んで行く。
開闢以来の単独技術展TJフェアは望外の成功で大盛況だった。最初だからと密かに覚悟
はしていたのだが、ほとんど全ての面でうまくいき、皆ベテラン営業マンのように振る舞
った。これで当社と社員は一歩成長したことは間違いない。
1995年 9月 同数の蜜蜂招きし萩の花

八ケ岳中腹には萩の木が沢山あり、晩夏初秋には赤紫の小さい花が無数に咲く。花が段々
少なくなってくる時期にそれを目がけて蜜蜂が無数に集まる。
Remedy社のアジア担当Goldstein氏が来訪し、社の製品 AR Systemの販売のため当社と一
緒にユーザ回りをした。TJフェアで引き合いも多数得た。この中から早く正式受注を得
たいものだ。しかし商売に使える英語の持ち主が担当に居ないことに初めて気付いた。
1995年 9月 フラッシュに月下美人の花眩し

ワイフが大事に育ててきた月下美人の白い大きな花が咲いた。珍しい花なのであろう。暗
い所でフラッシュを焚いて写真を撮ったがファインダの中で白い花が眩しかった。
東芝ビルで情報機器関連の販売会社の展示会があった。販売会社だけあってさすがに艶や
かな展示が素晴らしかった。しかし日本語ワードプロセッサには市場の衰勢が見られ、パ
ソコンもファクシミリも価格競争が一段と激しいし、厳しい環境になったものである。
1995年 9月 転勤を告げ稔り田の中を戻り
仙台と広島のソフトウェア技術者多数に本社転勤を告げる気の重い仕事に行った。帰りの
新幹線で稔り田が続くのを眺めながら、早くこのような実り多い仕事をしたいと思った。
仙台、広島と、既にそこから本社に手伝いに来ている長期出張者と、3カ所で説明会をし
た。事業の現況、ソフトウェア技術者の期待像、本社転勤の意義、個々人対応の一般方針
などを話し、質疑応答をしてきた。
1995年 9月 訪れし蜂の数だけ萩実り
9月も終わりになると萩の実がなる。花と同様小さな実で、花と同様無数につく。マメ科
だからサヤに入っているが種子は1個ずつしか入っていない。
上期最後の月となって、一人一人の細かな改善努力が実り、本部としては予算を上回る見
込みが立った。これで3期連続で予算達成となり、予算以上にやるということの実感が一
人一人に根付いたことであろう。これからはいよいよ黒字化への努力の段階に入る。