1995年下期は、担当の応用ソフトウェアの本部がついに僅かながら念願久しい黒字を計上で
きた期である。組織が色々変わっているので言い方が難しいのだが、9期目の黒字化だと私は
思っている。下期の途中までは、黒字化は1996年度であろうと思っていたのだが、予想外の市
場環境つまり需要増に助けられて繰り上がったと思っている。ここで需要が減ったらまた赤字
転落かどうかで、需要増効果と体質改善効果が計れるはずだが、私の思考実験ではかなり体質
改善効果の方が大きいと思っている。本部全員の取り組み姿勢が変わり、かつ懸命に努力した
結果である。
採算化達成を機に本部長を譲る時期と悟り、人事・体制に関して大変頭を痛めた。一時は続
投を言われたこともあったが、それでは幹部育成にも人心一新にもならない。結局4月には私
から見てベストに近い形で人事・体制が出来たのは幸いであった。
期初に地方から本部に30名を受け入れた。個別に世話係をつけ、専用の技術講習会を開き、
特別に1人1台のWindowsマシンを渡した。また本部の情報処理技術者資格の取得を奨励する
一環として本部の有資格者数百名を額に入れてエレベータホールに掲示した。
11月には米国に出張させてもらい、Venture Capitalist 5氏と意見交換してきた。商品発
掘を目的にはしなかったのだが、Actuate, Asymetrix, Baystoneという3つの商品に出会い、
うち2つはその後当社との関係が深まった。1年前に50名だったのが500名の会社になってい
たNetscape Communications社には仰天した。12月にはRemedy社との提携を新聞発表し、打率
十割で掲載して貰えた。3月には、Venture Capitalistを育てたいという意志の東芝の幹部に
言われて米国Venture Capitalistとのテレビ会議に出席した。Golden Gate Bridgeがスクリー
ンに映って臨場感もある。私の顔を見て"Hi !"と言ってくれた。
2月に当社がインターネットプロバイダ事業infoPepperを始めたので直ちに入会した。シリ
アル番号6番である。3月には無理を言ってモニタとして個人頁を置かせて頂いた。面白がって
見てくれる人が国内外に居たから、少しはinfoPepperのPRには貢献したであろう。6月に正式
な個人頁サービスが始まるまで毎月内容を更新した。3月にやってきた百武彗星は生憎天候が悪
く一度だけ肉眼で、2度望遠鏡で見ただけで欲求不満だった。専らインターネットで、世界に
は天候のよい地方が多いのにとブツブツ文句を言いながら、写真を見てウップンを晴らした。
自宅のパソコン群にCompaq Presario 528を加えた。実はDynabookだけでも各世代6台ある
のだが、CD-ROM時代になってCD-ROM機構組み込みのマシンが欲しくなった。3ー4年で買い替
えるに違いないパソコンに30万円も40万円もかけたくないので、格安品を探していたら、95年
11月のWindows 95とPentiumの出現で旧機種(Windows 95後送特約付き)が見る見る安くなっ
た。新機種発売直前のPresarioは78千円まで下がって姿を消したがその寸前で購入した。これ
を据置きで使い、移動用にはDynabookを利用している。


マツムシソウは八ケ岳で晩夏・初秋に咲く青い花で、ワイフがどうしても欲しくて自生の
種子を植えてふやした。里では珍しいこの花で生きる赤い孔雀蝶がやってくる。
9月の月例によれば上期は幸いほとんどのプロフィットセンタで対予算増収増益を記録し
好業績であった。だから余計に、本社ではわが本部だけが予算よりは良いものの赤字であ
ることが妙に目立った。同病の支社店ソフトウェア事業も赤字かつ予算未達傾向である。
1995年10月 一帯の葡萄熟せと鐘を引き
勝沼カントリークラブの近くの丘にある「ぶどうの丘センター」には試飲できるワインセ
ラーがある。見晴らしのよい位置に鐘の塔があり、紐を引くと一面の葡萄畑に鳴り響く。
オープン化でパソコンの設備化要求は強い。部経営の立場から悩んだ末の申請を持ってき
た部長も居る。多めに出せば上が削ると思っている部長もある。全部長が経営に目覚めて
欲しいので、各部の部長+1名から設備申請のヒアリングをしチャレンジした。
1995年10月 湖畔なる胡桃を剥きし指の黒さ
蓼科三井の森の竜神池の周りにはクルミの実が沢山落ちる。果肉を除いて水洗し乾燥させ
た種を割ってナッツを取り出すのだが、指が誤って果肉に触れるとあくで真っ黒になる。
地方から本社への転勤者には、教育の趣旨に沿って優先的にWindowsマシンを渡すことと
した。また組織ごとに要求のあるサーバマシンはレベルを下げたり共用を勧めたりした。
これら設備申請を何とか予算内に絞り込むことは石原技幹の汚れ仕事であった。
1995年10月 麗人の頬に映りし峰紅葉

八ケ岳は紅葉の季節である。特に美しいのが国道299号線を諏訪から登った所にある横谷
観音の展望台である。峰々、渓谷、展望台周辺が、かえで、山葡萄などの紅葉で染まる。
上期の反省と下期の施策のために本部でファミリートレーニングを行った。心強く思った
ことは、現状分析・反省を踏まえて立案された施策が、概して端正で有効打の予感を伴う
ものだったことである。何をすればよくなるか日頃から考える習慣が出来てきた証拠。
1995年11月 エルカミノ パソコンショップの夜は長し
El Camino Realはシリコンバレーの大通りの名である。Lawrence Expresswayとの交差
点にCompUSAというパソコンショップがあり、夜9時まで賑わっている。
米国で1週間遊ばせて貰い、Venture Capitalist数人と会って意見を交換した。その結
果のお土産が、"Internet is a virtual machine next to program on."であった。
商品発掘は目的としなかったが、結果的にActuateとAsymetrixの事業機会を得た。
これは少し注釈を要する。それまで私はインターネットはWorld Wide Webを中心
に情報の検索参照手段だと思っていた。しかしシリコンバレーで色々な人の話を聞
くと、これは情報処理の新しいインフラであり、メインフレーム、ミニコン、パソ
コンと続いた遷移の次に来るコンピュータと考える必要があり、ソフトウェアハウ
スから見ればその上でプログラムを組む事業機会と捉える必要があると感じた。
1995年11月 男体山見ゆ夕霧の故国なり
飛行機が成田に近づいた時関東平野は夕霧におおわれたように見え、その中から日光男体
山だけが突出して夕日に輝いていた。ああ故国に帰ってきたと感じる。
或る支店で受注した重要物件が納期寸前まで作業が捗らず支援要請があった。急遽橋本部
長を中心に45名の緊急短期決戦体制を組み、下期設備の入荷分を横流しした。やっとプロ
ジェクトが立ち上がり全容がよく見えてきた。(結局奇跡的にうまく行ってしまった。)
1995年11月 誰に見せるでもなく深山の紅葉かな
奥蓼科温泉の明治温泉周辺の渓流美を堪能してから、山に分け入り王滝まで小一時間歩い
た。人通りも疎らな山道に誰に見せるでもなく見事な紅葉が点々とある。
OCA=Oracle Cooperative ApplicationつまりOracle応用パッケージを推進している東芝か
ら、この技術を持つ技術者へのニーズが高いので方針を再検討した。技術者育成を第一義
に考え、伝統的な派遣業務で終わらないようにしようと。
1995年12月 唐松の落葉香わし黄金道
山道の吹き溜まりに唐松の落葉が降り積もった上を歩く。黄金色のフカフカした道で、香
ばしい香が辺り一帯に漂う。
米国出張で見つけたActuate社と長年付き合っている関西基点のソフトハウスAir社の
東京拠点を、本部の各事業部代表選手と共に六本木に訪ね、Actuateのデモを見せて貰っ
た。専門家の評価はこれからだが、特徴あるソフトウェアのようだ。
1995年12月 冬晴や唐松の若芽既に赤し
葉を落とした冬の唐松林は赤い。晴れた日には特に赤く見える。近くで見ると既に来春の
ための若芽が無数に用意されていて、それらが赤いのだと分かる。
本部の今期の損益見込みを描いてみた。まだ赤字予算にも到達できないでいるが、この調
子でいけば来春には...(赤くなくなるかも知れないという論拠の無い勘を俳句に言わせ
たのだが、読み取った人は少ないだろうな。)
1995年12月 厳しくも優し阿弥陀岳(あみだ)の雪化粧
山小屋は阿弥陀岳の真下にあるので、その表情には常に接している。夏はゴツゴツした岩
山で厳しさのみが目立つが、雪を被ると酷寒の厳しさはあるが山容に優しさが加わる。
会社幹部と相談してActuate Japan社への出資を前向きに検討し始めた。通常は出資など
近づき難い領域だが、今回は出資金の保全策や仕切値の優遇策など、出資を検討する側が
取り組み易い仕組みがよく考えられているので魅力を感じる。
1996年 1月 年初め確かに見たり栗鼠の影
リスは正月頃は冬眠しているのかと思うが左にあらず、向かいの別荘の屋根に動くものを
見かけたと思ったらリスだった。屋根から木に、木から木に上手に跳んで消えた。
昨夏川崎本社で開いたTJフェアの好評に気をよくして、1月には名古屋と大阪でも開催
した。共に盛況で何かを確実に掴んだように見える。或るお客様が「東芝情報システムと
のお付き合いを受託ソフトウェアとオフィス用品だけで考えていたが間違っていた」と。
1996年 1月 金だるま値切れどおやじ恵比寿顔

今年もだるまは金色とした。諏訪大社本宮の近くの屋台で値切ったのだが、だるまと並ん
だ恵比寿様そっくりのご主人は、にこにこしながら値引いてくれた。
来期の設備投資、開発費、広告費などの投資費用を討議した。従来の経験から「貰い得」
精神で過大な数値が出てくると予測していたのだが、驚いたことに良く考えられた妥当な
数値が出てきたので原案通りOKとした。いやこれが正常な姿と嬉しくなった。
1996年 1月 雪の嶺凍てし湖畔の白かんば
蓼科三井の森の竜神池は四季を通じてワイフと私の好きな場所である。今は近景は池氷の
上の雪、中景は湖畔の白樺、遠景は雪嶺と、白一色である。白はどんな色より艶やかだ。
各支社店の支援を担当する本部幹部の、地方ソフトウェア支援担当者会議を行った。今期
の仕事量不足が解消したのはご同慶だが、戦略面の方向付けが出来ていない。逆にこれか
ら何でも出来る。「白痴美」という言葉をモジれば「白紙美」であろう。
1996年 1月 安堵せり水洗タンク氷解す
山小屋の手洗いの水洗タンクの水抜きを忘れ、タンクの内容積そのままの巨大な氷が出来
てしまった。水を拭き取りつつドライヤで氷に穴を開け、湯を注いでやっと解かした。
1月の月例事業会議で全社各本部の業績を聞き、一時は厳しいかと見えた今期も予算はク
リア出来そうな感触を得てホッとした。問題物件を抱えた2支店と、作戦的に出し渋って
いる1本部以外は、対予算増益の見込みが出て来た。
1996年 2月 凍てし道滑りて転ばずこの脚力
山小屋周辺では2月ともなると日当たりの雪が融けて道路に流れ、それが凍って鏡面状の
氷ができる。滑ってもサッと体勢を立て直すこの脚力はまだ仲々のものと自賛した。
来期予算損益ガイドを少しスリップする形で予算案を提出させて貰うこととした。無理の
利かない範囲ではないが、地方支援や体力改善も継続したいし、不慮の出来事が少々あっ
てもズッコケないようにしたいから。
1996年 2月 事故車から離れて過ぎむ凍てし道
八ケ岳山麓の道路がテカテカに凍って、勾配に流された車が溝にはまっていた。これは危
険。事故車から出来るだけ離れて、道の勾配を避け分水嶺を跨いでゆっくり運転した。
大赤字物件の更なる悪化が滝沢部長以下の努力で回避される見通しとなったおかげで、今
期の本部の赤字予算に対してプラスゼロで締められる見通しが見え色めき立った。赤字事
業部がついにプラス(但し一部経費を別にした管理損益ベース)を見込んだことが大きい。
1996年 2月 里は春はるか白銀車山
八ケ岳山麓はすっかり春の日差しになったが、遥か北方を見やると車山のスキー場だけが
まだ白銀の世界である。日当たりの少ない斜面だし人工雪の設備もあるから。
全社の来期予算は積み上げなどの無理もほとんど無く比較的すんなりと策定できた。力が
付いてきたことを実感する。しかし支社店のソフトウェア事業だけはまだ厳しい状況にあ
る。本来はもっと苦吟して策定するくらいの方が良いのだが、今は体力作りが大事。
1996年 3月 春兆や朝日眩しき通勤路
朝夕ワイフに最寄駅まで車で送り迎えして貰っているのだが、日の出直後の低い太陽に向
かって行くようになり、眩しくなったのは春の兆しである。
設備申請の精度と組織の業績との高い相関関係を発見した。業績の良い組織は最小限の投
資で最大の効果を狙い上長率先で知恵を絞っている。上長のポリシーが無く担当者が欲し
いという設備を積み上げてくる組織は業績も悪い。前者の増加傾向には勇気付けられる。
1996年 3月 震えつつインターネットへ春の便り

当社のプロバイダ事業のinfoPepperにモニタとして個人頁を載せて貰う交渉が成立した。
小淵沢神田の糸桜の写真を目玉に、しかしまだ寒い自宅で震えながら頁を作った。
何でも自分でやって見ない限り他人に判った口がきけない私は、今回は個人頁をインター
ネットに載せることを志した。CD-ROM付きの米国の参考書を買ってきて通勤電車で読破し
土日2日間で一応のものが出来た。英文主体で外人とインテリ日本人向けである。
1996年 3月 雲の間に百武彗星霞みおり

巨大だというので安心して最近接点まで待ってしまった。その夜は低い雲が多かったが雲
間から北極星の下にボウッと光る百武彗星を肉眼で見た。以降は天候に恵まれなかった。
今期損益はついに千万円台ながら黒字を計上出来た。実力より1年早かった理由は仕事量
増大の追い風である。長年赤字の事業部が(経常損益より甘い管理損益ではあるが)黒字
化してくれたことが大きい。応用ソフトウェア事業の将来がやっと何とか見えてきた。
ここに掲げたような写真を撮りたくて、ASA3200の高感度フィルムを2本も買い、
準備していたのだが、遂に天候に恵まれなかった。この写真はインターネットで見
たカリフォルニアでの写真を私なりに加工したものである。
2年間担当した応用ソフトウェア事業の本部長を譲った。本部2分説・3分説色々ある中で
私も数カ月大いに悩んだが、結果的に理想に近い形になったと思っている。即ち本部は分割せ
ず表取締役に本部長をお願いし、有馬氏を副本部長に迎えた。開発取締役は全社のスタフ機能
強化の一環として全社の技術の要の位置で目ざましい活躍を始められた頃、ご縁があって東芝
ソフトウェアエンジニアリング(株)の社長に栄転された。一面残念ではあるがご本人のため
に喜んでいる。幸い以後もこの本部はスムースに運営されており、上下パターンで上期は再び
赤字転落かと危惧されたのに黒字に踏み留まっているのは立派である。6月には高橋取締役と
表取締役がそれぞれ常務取締役となられた。
前本部長がウロウロしていては新本部長がやり難いはずだから少し引っ込んだ席をとお願い
したら、社長のご配慮で社長室並みの部屋を作って頂いてしまった。しかし人が入り難いかと
思ってフロアのどこからでも見える位置に緑ランプを設け、点灯している時は誰でもどうぞと
宣言した。
私の役目の一つは、従来からその任にあって充分役目を果たせないできた「システム・ソフ
トウェア統括」で、3つの本部の経営に関して社長を補佐する。しかしライン長が一生懸命や
っているのを側から口出しするのは私の得意とするところではない。心配に思って相談に乗っ
たのは、国際関係、地方ソフトウェア事業との関係、プロバイダ事業の構造、システム商品事
業の新しい仕組みなどの特定分野、および本部間調整事項とトピックス的なものである。また
本部の雰囲気を知るために本部の内部会議に定期的に出席させて貰った。
もう一つの私の役目は、社内のインターネット関連事業の推進である。既に1つの本部はこ
の分野で業界でも目立つ活躍をしていたが、他の本部は極端に言えば別世界の話だと思ってい
た。インターネットはもっと裾野の広いものだから全社の各本部がもっとインターネットに向
いた仕事をしないと世の中に遅れると考え、各本部から兼任者を募って週1回会議を開いた。
まず兼任者に個人ホーム頁作成を勧め毎週進捗をフォローした。次に兼任者が核となって各本
部で輪を広げ本部のホーム頁を作り、全社運動的に当社のホーム頁の大改訂を行った。ホーム
頁充実によるPRも目的であるが、それよりも頁作成運用人口を各組織に増やすことによりイン
ターネットに親しむ人口を増やし、各本部のインターネットアレルギーを除くことがもっと大
事な目的であった。インターネットに関する私のリベラリズムが幹部のお気に召さなくて最終
段階で大分大ナタを振うことになり、切られた頁の作成者にはご迷惑をかけたが、9月初めに
やっと世の中に発信できた。折しも各本部にインターネットがらみの色々な引き合いが増え、
良いタイミングであったと思っている。
ソフトウェア分野でのニーズ増大が益々顕著な時期で、客先からのご要請も更に強烈になっ
たが、総量はこんなに増やして頑張っているのですがこれ以上は無理ですとむしろお断りした
り部分解でご勘弁頂くことに有馬副本部長が苦労した。単なる需給バランスの問題なら価格が
上がって解決するのが自由経済の基本構造だが、既に経済的に成り立たない手法を無理に成り
立たせようとする場合には対価では解決出来ないので、ババの押しつけ合いを演じることも稀
ではない。
私は3月に還暦を迎えた。赤いチャンチャンコの代わりに赤いディアマンテを買うと言った
が、納車は5月になった。赤と言ってもダークレッドの落ち着いた色である。快適かつ安全に
スピードが出てしまうのが唯一の問題点である。前車ギャランは7年間で12万km、地球を3
周した。
ワイフの親代わりの長兄が急逝した。長年教育者として奉職してきたが、戦争中は特攻隊の
隊長兼教官であった。「俺もすぐ行くから」と教え子を送りだした後自分も出陣するはずがす
んでの所で終戦で命拾いをしたので、教え子への約束を守らなかったことを生涯負担に思って
いた。それを個人頁に書いたら米人から「それを一生の負担に感じるとは俺も含めて大多数の
米人には理解できない」とコメントがあった。日本人にはこのコメントが理解できない。米人
の考え方は大体判っているつもりだった私にはショッキングであった。

蓼科三井の森の竜神池のザゼンソウが残雪を押し分け、座禅僧の庵のような包葉(俗にい
う花)を出すと、輻射熱で雪が円形に融ける。やがて同類のミズバショウも顔を出す。
次の感想を4月冒頭の週報に記載した。
[感想]
2年間本部を担当させて頂き、充実した日々を送ることができた。幸い各位の努力とご支
援により、黒字化できた区切りにバトンタッチできたことは幸いであった。
新時代に適応した方向付け、新技術へのシフト、施策を練って実行するスタイル、計数的
管理、自律的自己責任的行動、下請根性の払拭などに、若干なりとも貢献できたとすれば
幸甚である。
1996年 4月 足軽し花毛氈の通勤路
(同様の句が昨年もあったが)川崎の線路沿いの公園道のサクラが満開を過ぎ、煉瓦畳が
ピンクの花もうせんになった。子供のようにうきうきしながらそれを踏んで会社に急ぐ。
日本Sun創立10周年の記念会で、貢献の自惚れがある私としては居心地が良かった。Mc-
Nealy会長の講演に対して「中央集権のISシステムを推奨されるが社員の創造性は?」と
フロアから質問したら、後で「顔は見えなかったが声でお前と判った」と言われた。
1996年 4月 春寒や花の命の長き年
「花の命は短くて」というが、今年は春が仲々暖かくならず、寒さが何度もぶり返すもの
だから、サクラが散ることなく花の命が異常に長い年である。
絶対にNoと言わせない東芝OAコンサルタント(株)の加藤きくよ課長に頼まれ新人に講演
した。津田塾大、早大、日女大などからの才媛25名に、新時代に生きる女性の役割を自覚
し、「お母さんは昔何してたの?」と聞かれても困らぬような仕事をせよ、と話した。
1996年 4月 武川なる千古の桜花盛んなり

山梨県ムカワ村の実相寺の日本武尊お手植えの伝承があるエドヒガンザクラの古木「神代
桜」を今年も見に行った。古木にも拘らず若々しい花を見て毎年力付けられる。
さすが東芝は進んでいると感じた。インターネットの技術を社内システムに適用したイン
トラネットで、社内情報の共有参照システムが充実しており、また充実させるだけの技術
人口が揃っていることを知った。大いに刺激になる。
皆さん、いけないのはこの花なのです! 私が東芝を去る決心をしたのも、東芝情
報システムを卒業する気持ちを固めたのも、この花が原因なのです。古木にも拘ら
ず若々しい花を枝いっぱいにつけ、「老いても若々しくあれ」と私を唆したのです。
1996年 5月 唐松に緑の豆粒芽生えたり
唐松の芽は冬の間は赤いが、春になるとそれが弾けて直径 2 mmほどの緑の球形となる。
それが5月中に見る見る針状の葉に成長して森が緑に変わっていく。
米国Remedy社のARSソフトウェアの日本語化推進のために牧野氏を片道切符で米国に送り
込んだが、幸い改善の兆しが見えてきた。ソフトウェア日本語化の英語の本が出ているく
らいだから先方も甘く見たし、金が無かった当方もそれに甘えたという反省がある。
1996年 5月 知らぬ間に薫風に乗る新車かな
7年間12万km乗ったギャランから、私の還暦を記念して赤いディアマンテに乗り換えた。
さすがに乗り心地はよいが、問題は意識せぬ内にスピードが出てしまうことである。
東芝の一部の事業部では当社が使用中と同じ営業支援システムをフルに活用し、大変能率
が上がっていると聞いた。当社と違って営業全員に携帯電話とノートパソコンを持たせ、
外出先からでも随時入力できるので、上長のコメント入力の速度だけが制約条件だと。
1996年 5月 買い求めし石楠花咲きぬ薄紅色

山小屋にシャクナゲが欲しくて、やや高価な日本種の株を地元の植木好きの老夫婦から買
い求めて移植した。木を弱らせないため大分つぼみをもぎ取ったがそれでも多数咲いた。
日本語化の進展を機にRemedy社から営業VPと極東担当が来訪した。当方の主役はプロジェ
クト長の宮野女史で、通訳を介して文句と要求を言いたい放題。先方は「東芝情報システ
ムと組んで良かった。他はこんなにうまく行かない」という。やっと事業になってきた。
1996年 6月 阿弥陀岳の岩肌緑に衣替え
山小屋を見下ろすように聳える八ケ岳の阿弥陀岳 2,806 mであるが、衣替えの季節を知っ
ているかのように緑色になってきた。
ソフトウェア事業の内容が急速に変化している上に仕事量増大傾向である。伝統的な低単
価の派遣型下請プログラマを欲しがる顧客ニーズに応えることが当社も他社も段々難しく
なってきた。それ故になお当社への要求が強烈になっている。
1996年 6月 盛んなる青葉の道はやや暗し
川崎の線路沿いの公園道の木々は、枝葉が生い茂り真に勢盛んであるが、その分道が暗く
なってしまった。加えてホームレスが住み着いてベンチを占有している。
今期中に6支社店を回る志を立て、今月は地方支店の一つに行ってきた。下期はオテツキ
があり大分損をして意気消沈していたように少し前までは見えたが、元々実力以上に勢が
あっての向こう傷だから気にすることはない。
1996年 6月 咲き揃いしレンゲツツジや山の燃ゆ

車山のヴィーナスラインの下にレンゲツツジの潅木が無数にあり、諏訪富士の名もある蓼
科山を背景にそれらがオレンジ色の花を付けると、山が燃えているように感じる。
下期まで本部長として担当してきた本部が下期の業績表彰を受けた。ここ四五年で多分初
めてのことだろうから真に嬉しい。改善に一番効いたのは管理者から一般社員まで一人一
人の利益意識、自立意識、自信であろう。一人一人が変われば組織は燃える。
1996年 7月 アクセルを緩めて聞かむ蝉時雨
八ケ岳を鉢巻状に巻く高原の「八ケ岳横断道路」に入ると、急に最近蝉が賑やかになった
ことに気付いた。窓を開けエンジン音を下げて今年初めてのセミシグレを楽しむ。
7月1日は東芝の創立記念日で半ドンなので、珍しい方が何人か来訪された。東芝グループ
内で当社の株が上がっているという嬉しい話もあり、生意気になった、俺の仕事をやって
くれないという声もあることを再確認した。食べ物と受託物件の恨みは恐ろしい。
1996年 7月 雨上がり俄かに起こりし蝉時雨
雨が上がった途端急に蝉が一斉に鳴き始めた。鳥の鳴き声も同じである。雨の間蝉はどう
しているのだろうか。
バブル崩壊以降流通市場の冷え込みで東芝からの関連分野の仕事は低迷していた。ここに
きて景気の底入れと東芝関連部門の積極営業で仕事量が急増した。有馬副本部長のデータ
によると当社の貢献度総量も急増しているが、残念ながらニーズに追いついていない。
1996年 7月 時鳥寝息に混じる通夜の朝
栃木県は鬼怒川温泉近くのワイフの父親代わりの長兄が急逝した。交代で通夜の不寝番を
していると、仮寝の寝息に混じってホトトギスの声が聞こえた。もう夜が明ける。
支社店一巡の一環で支社の一つに行き、支社開発の商品の購入を最近決めて下さったお客
様にお礼に行ったが、値引きのご要請があった。厳しい業界環境と業界構造の中でひたす
ら出費を切り詰めて耐え抜こうとするこのお客様の雰囲気はやや暗いものがあった
1996年 7月 湖畔にはレンゲツツジの燃える道
車山のニッコウキスゲの満開を鑑賞しようと、白樺湖を通りかかった。大門街道を上って
白樺湖に達すると、湖畔の遊歩道にレンゲツツジが美しかった。
岡本社長の提唱で始まった東芝系ソフトウェア会社の懇談会は仲々刺激的である。減員に
も拘らず売上が急増している部門は「一品料理は罪悪」「自社開発はしない」(技術商社
指向、必要なら開発は外注、開発部隊は解散してSE化)と激しい。こういう道もある。
1996年 8月 ファインダに止まれ撫子風の舞

何十種類もの高原植物が乱れ咲く八島湿原を一周し、多数のディジタル写真を撮った。ピ
ンクの撫子の写真を撮ろうとしたが風で楽しげに舞い続けファインダに仲々収まらない。
米国Remedy社のARSは、障害報告や質問の記録参照に使うソフトウェアであるが、それと
連動可能な、パソコンに関する質疑応答のデータベースの翻訳版を売り込んできた会社が
あった。変化激しい内容を次々に翻訳し追随するのは大変だろうと思うが、秘策ありと。
1996年 8月 弥生人も愛でしか大輪大賀はす

諏訪の富士見町井戸尻に大規模な縄文遺跡があるが、その一角に大賀博士が千葉の二千年
前の弥生遺跡から発見して育てた大賀ハスの子孫が大輪のピンクの花を咲かせている。
当社のインターネットホーム頁は早くから関連部門によって開設維持されてきたが、この
春から全社運動で各部門が頁作りに励み、巨大な頁群が出来上がった。大分内容を整備し
た上で公開前に会社幹部にチェックを要請した。(叱られて大ナタを振るった)
1996年 8月 いざ行かむ夾竹桃の101(ワンオーワン)
宮野三千子部長と米国出張した。「暴走おばさん」の女史ならスパルタ式でも大丈夫と、
空港からレンタカーでいきなり夾竹桃が美しい高速道101に乗り入れて貰った。
米国Remedy社との懸案事項一掃の他、私の卒業後も考えて国際企業人緊急育成を目的とし
た。旅行・レンタカー・ホテル・食事などのノウハウ、運転のコツ、企業訪問と折衝の要
領、優秀な通訳のご紹介、付近の観光・本屋・PCショップへのご案内など。
1996年 9月 鰯雲 入道雲と交わりぬ
面白い空である。高空には秋特有の鰯雲が広がり、下からは入道雲がもくもくと頭をもた
げていた。夏と秋の引継式か。
2つの本部の連携を働きかけ、ワーキンググループが出来た。営業力と優良ユーザを持つ
システム商品事業の本部と、商品と技術力を持つ応用ソフトウェア事業の本部が連携すれ
ば、両者の事業がもっと伸びることを期待している。
1996年 9月 もう一発ニアピン頼む秋の風
高価な東京バーディーで、不調は左足の揺らぎと気付いて直した途端ショットが決まり出
し、後半はニアピン賞を2つ取った。少し短かったかな、フォローの秋風よ頼むと。
幕張のWorld PC Expo 96で、当社も小柄ながら好位置でRemedyのARSを展示した。幸い
最近立ち上がって来たが、この展示でもう一息の前進を願う。名も知らぬ会社が意外に良
いものを出している。インターネットとディジタル写真の展示が目立った。
1996年 9月 倒れつつ支え合いしか蕎の花
八ケ岳山麓はソバの花盛りである。標高1,000 m前後のソバが一番美味しいと土地の人は
言う。昨今の風雨で傾いてはいるが密度高く植えられているので倒されてはいない。
定年を2年9ヶ月繰り上げて9月末に退職し、Wink Communications社に再就職するお許し
を頂き 9月17日に発表となった。3年間厳しい時期を助け合ってきた仲間達が色々な組み
合せで送別会を企画してくれ有り難いことにあっという間に9月中は埋まってしまった。
1996年 9月 満ち足りて実りの大地を飛び立ちぬ
6支社店一巡の最後に札幌の支店を訪ねた。充分訪問目的を果たし美味い蟹も食って、ト
ウモロコシを初め農産物の実り豊かな北の大地を離陸した時は、心が満たされていた。
3年間面白い仕事をさせて頂き、充実した日々を送った。中期事業計画・STAR21作戦、生
涯二度目の大赤字事業の黒字化、会社の国際化、新技術指向、脱下請根性、Netscapeや
ARSのような新商品の導入、会社ホーム頁の改訂などに貢献させて頂いた。また契約ゼミ、
英語塾、Visual C++ゼミのようなこともやらせて頂いた。自ら定年を宣告し充実感をもっ
て東芝情報システムを卒業できることは男冥利である。後に残すのは実り多い大地である。
これからどんな実りが生まれるか期待はふくらむ。幸せである。