第1章 概論
明治39年1月18日、
二股(現南大夕張)福山坑の試掘権を有する川崎繁美が偏信省鉄道局に対し、清水沢・二股間5哩40鎖の専用鉄道施設免許を申請するに始まり、明治39年6月、京都合資が組織され権利一切を譲り受け、
明治39年8月2日、鉄第884号をもつて専用鉄道施設免許を受け、
明治40年7月、京都合資会社、炭坑部門を分離独立させ、夕張炭砿株式会社と称するも後大夕張炭砿株式会社と改称。
明治44年6月1日、鉄道院運転管理の下に専用鉄道として運転を開始せり。
明治45年6月、三菱合資会社が大夕張炭砿に資本投入共同経営となり、
大正5年2月17日三菱合資会社 大夕張炭砿株式会社を吸収合併し炭坑部の美唄鉱所の管理下に大夕張坑と称し、
大正7年4月10日、三菱合資会社は炭坑部を分離独立させ三菱鉱業株式会社設立す。
大正15年8月、北部開発の儀起り、
大正15年11月、南大夕張、通洞(現大夕張炭山)間6哩10鎖専用鉄道延長工事着手、
昭和2年6月10日、大夕張砿業所独立、
昭和3年11月27日、 北部延長工事完了、
昭和4年5月15日、 北部延長線の運転認可を受け、
昭和4年6月1日、 清水沢・通洞間10哩65鎖専用鉄道として自営運転を開始す。
昭和14年4月20日、地方鉄道、三菱砿業株式会社線として営業開始、車扱貨物の連絡運輸を実施。
昭和16年12月1日、旅客、荷物及び小口扱貨物の連絡運輸を実施す。
昭和20年9月1日、鉄道課設置し、
昭和22年1月16日、国鉄清水沢駅に乗入れ、新清水沢駅を廃止して清水沢駅を共同使用駅とす。
昭和31年6月1日、国鉄との連絡運輸に美唄鉄道と併合清算の形態を採り、三菱鉱業株式会社美唄鉄道及び同大夕張鉄道と称す。
昭和32年5月より昭和37年10月に至り、二股ダム建設に伴う鉄道移設工事を完了、道立自然公園シュ−パロ湖を具え南大夕張・明石町駅間6粁の様相を一変せり。
明治21年夕張炭田の大露頭発見以来、附近炭砿の開発が盛となり、二股(現南大夕張)夕張川岸15尺露頭が発見されたが、地形峻険にして輸送困難のため開発は進まなかった。
明治31年頃、福山某がこれの試掘権を得てより福山坑と称されたが、その後数名の手を経て川崎繁実の名義となり、これが開発の目的をもって明治39年1月18日、遍信省鉄道局に対し清水沢・二股間5哩40鎖の専用鉄道敷設免許の申請を提出せり。
明治39年6月、坂本則義を社長とする京都合資会社が組織され、権利一切を譲り受け炭砿事業に着手、同時に専用鉄道の前段としての馬鉄工事施工中、明治39年8月2日、鉄第884号をもって専用鉄道敷設免許権を得た。
明治39年10月、京都合資会社が夕張川岸15尺露頭を目標に福山坑を開坑、更に同坑の北方10数町、滝ノ沢上流に滝ノ沢坑を開坑、二股に事務所と貯炭場を設ける等内外の設備を整えたが、明治40年7月、京都合資会社は炭坑部門(含鉄道)を分離独立させ株式組織とし、夕張炭砿株式会社と命名、権利一切を譲渡、更に福山坑の附近に錦坑を穿ち馬鉄工事も着々と進められた。
明治39年6月以来、夕張炭砿株式会社により施工中の馬鉄工事は明治40年8月完成石炭の搬出が開始された。
大夕張炭砿株式会社社紋
その後、明治42年9月、大夕張炭砿株式会社と社名を改称し、明治44年6月1日、専用鉄道が敷設される迄4ヶ年に亘り馬鉄をもって、二股在任請負人、佐藤庄太郎をして石炭の積出を行わしめた。
当時の運炭方法は、輓馬又は自転車道(エンドレス)により坑口から遊炭場え運び、バ−スクリンにて塊、粉に別ち、馬鉄をもって省線清水沢駅に輸送し鉄道の貨車に積替え市場に搬出した。
馬鉄は5哩40鎖、軌条は45封度、軌間2呎6吋の単線であるが、二股の送炭場、清水沢の石炭積込場及び中小屋(現遠幌駅構内附近)には行緯線を設け、遠幌加別川には吊橋が架けられ、葡萄山の断崖は片橋の難所であった。
その昔、山道を徒歩で葡萄山を登り、葡萄蔓を伝って断崖を下り川岸を迂回して中小屋に達したが、この断崖を人呼んで葡萄蔓と称しこれが葡萄山の語源である。
当時の馬は俗に道産子馬と呼ばれる和種で、1頭20円乃至50円、4歩積又5歩積トロリ−5両を連結して牽引、下り勾配で加速、惰力をもって上り勾配を上る波状の連続とし、制動装置としては鋼棒を車輪に差込み、更に馬夫が挺子を引く木製の棒であり、これは数日にして交換しなければならなかった。
5両のトロリ−に2屯の石炭を積込み「送り」という送状を携行5哩の道程を運搬して70銭、1日2往復で1円40銭、40数頭の隊列をもつて清水沢迄山中を運搬する様は当時としては見事なものであった。
後に至り輓馬の疲労を考慮し、輸送区間を中小屋で2分し中継のことゝした。
当時の労賃は1日30銭、馬糧の燕麥が1俵80銭という。
冬季降雪期には2屯積の馬橇をもつて運搬したが、大雪に見舞われ数日間、又10数日間も輸送中止とすることも度々であつた。
清水沢の貯炭場は盛土とし、積込場(現清水沢駅構内日通営業所附近)に炭台を設け貨車積を行った。
明治39年8月2日、鉄第884号をもって清水沢・二股間専用鉄道の敷設免許を受けてより鉄道工事は着々と進められ、明治43年10月道床基礎工事、葡萄山隧道工事及び遠幌加別橋梁工事が完了、翌明治44年春、融雪を待って軌条を敷設
5月に至り完成、6月1月1日から鉄道院運転管理の下に専用鉄道として運転を開始せり。専用鉄道は清水沢駅・二股駅間
5哩40鎖、軌条は60封度、軌間3呎6吋、機関車は鉄道員追分機関車の7214号、石炭車はト号10屯車の外後に至り大形鉄製車(オテセ)が入線した。葡萄山隧道
延長6鎖81節(137m)
煉瓦積
曲線とすべく東西両面より掘進せしも、
測量の欠陥から中央結合部に於て中心
一致せず、無理に施工のためS曲線とせり。遠幌加別川橋梁
遠幌加別川橋梁の架設につていは、馬鉄に使用せし吊橋を人道として存置する目的をもって、吊り橋の上流に併行して架設のため橋梁の前後を曲線として軌条を布設せしが、橋梁工事中に吊橋は老朽のため落下破損せり。
現在の遠幌加別川橋梁は昭和10年再度架替せしもので馬鉄用吊橋と同位置にして、上流に今なお旧橋梁の橋脚が残虚せり。
7214号蒸気機関車
![]()
形式 7200 1C形テンダ機関車
旧所属 北海道炭鉱鉄道
所属 鉄道院
使用初年 明治23年(1890年)
製造所 Baldwin.Locomotive.co(米)
缶中心を低くして安定性を持たせるためか、火室が極端にさげられている。
その関係で第2、第3動輪間がかなり長いのが本機の特徴である。
大型鉄製車(オテセ)
オテセの形式、両数及び製造年は次の通りであり、当時としては明治44年製の11000形式が入線したものと想像される。
形 式
両 数
製造年
1 10500
11000
11000
1 300
125
400
明治36年 大正14〜15年
明治44年
大正2年
明治45年6月、三菱合資会社が大夕張炭砿に資本投入共同経営となり、増資後は資本金150万円となり組織も一新され、明治45年7月には若菜坑を開坑、これを主力として愈々発展せり。
送炭場付近
明治45年、大夕張炭砿株式会社創業当時に於ける、二股(現南大夕張)構内、送炭場附近
写真は複写せしため不鮮明なるも現写真によれば、送炭場屋上に大夕張炭砿株式会社の社紋が掲げられ、機関車ナンバ−プレ−トに7214の番号も確認される。
大正5年1月26日、三菱合資会社は大夕張炭砿株式会社を吸収すべく譲渡申請を提出、大正5年2月17日監第309号をもって認可を受け権利一切を譲り受け、三菱合資会社に移管後は炭坑部の美唄砿業所の管理下に大夕張砿と称した。
大正7年4月10日、三菱合資会社は炭坑部を分離独立させ三菱鉱業株式会社(受権資本金2億円)を設立、6月14日これの譲渡を監第1051号で認可された。
当時大夕張坑の職制は運転管理を鉄道院に委託していた関係上、鉄道は係部門を置かず、軌道保守は工作係、乗降客の取扱いは労務係で行い、労務係詰所を大夕張駅とし、小型客車2両を連結運転せり。
もともと石炭輸送のための専用鉄道であったが、他の地区とを結ぶ道路がないため鉄道の旅客便乗が許されていた。
但し当時は施設も悪く危険が多かったので乗車券(乗車勘合証と称す)の裏面には人命を保証しない旨注記され、表面様式は白色無地に横線が