大正7年頃より北部開発計画あり、その調査を開始したが、この産炭を如何にして搬出するかゞ当時の大きな課題であった。
その第1次案として、北部、万字間に鉄道を建設することゝし、万字の石川呉服店を根據として調査を開始するも急坂のため廃案となった。
大正8年、第2次案として独逸人「ベンネッケ」氏により通洞案(現在の鉄道をもって夕張川本流を溯り、通洞をして北部炭田に達するもの)が立案されたが工事の着手には至らなかった。
第3次案として、大正10年頃、現遠幌駅附近より遠幌加別川を溯り、北部炭田鹿島沢附近に達する鉄道を立案、測量を開始したが、全線40分の1(1000分の25)の急勾配となる上、延長40鎖(800米)に及ぶ隧道の外、2、3ヶ所の隧道を必要とする悪条件のため実現に至らず。
更に大正12年に至り第2次案を最良とし実測を再開せるも遇々関東大震災のため中止のやむなきに至れり。
大正15年8月、俄に北部開発の議起こり、採掘方法は緒案再検討の結果第2次の通洞案に決定、専用鉄道は既成線4哩55鎖地点を起点とし、夕張川本流に沿い6哩10鎖を延長、昭和4年9月完工の目標をもって大正15年11月上旬より工事を開始せり。
道床工事は延長6哩10鎖にも達する長区間のためこれを4期の工事区間に区分せり。
然るに二股を去る僅に56鎖なる途中(5哩31鎖より5哩40鎖に至る)に青葉峠(俗称ダニ峠)の険崖あり、これを開鑿しなければ一切の機械及び物資を搬入する事を得ず、4哩67鎖より5哩75鎖に至る1哩08鎖間をして第1期道床工事区間とし、4哩67鎖より5哩42鎖までを大井組に、以北は梅原組をして大正15年11月上旬より着工、断崖に命綱を用うる難工事であったが遂にこれを克服、昭和2年8月31日これを完了せり。
当区間に於ける工事中、土工の切土誤魔化しのためか、中心杭を川側に振られ、予定の8鎖(半径160米)曲線が6鎖半(半径130米)曲線となり、軌条布設の際判明せるも修正の暇なく、8鎖曲線として監査を免れたが、後列車運転に際し第2、第3動輪にフランジのない9200形式蒸気機関車の脱線すること屡々であったが後これを正規に修正せり。
昭和2年3月17日付をもって、鉄道省陸運監督局に対し、二股通洞間専用鉄道敷設免許の申請を提出するも、工事に当り認可を受くる暇なく、一時これを物資運搬道路開鑿の名儀の下に御料地を借地し工事を進めしが、昭和2年6月15日監第1494号をもって正式免許を得たので、線路中心より左右各20間(36.36米)を借地し工事を進めることゝせり。
昭和2年4月8日、本店技術部より技師、沢田梅太郎氏来山、はじめて工事予定線を踏査帰任、4月10日には旧大夕張炭坑直轄の鉄道係を設け、事務所を用度係事務所(既成線終点4哩70鎖の山側附近)内に置くことゝしたが、翌5月中旬専用鉄道工事担当者として沢田技師正式発令、同月22日着任した。
鉄道係主任
沢田梅太郎氏
更に従来美唄砿業所の支抗として稼業を続けてきた大夕張炭砿は、昭和2年6月10日付をもって新に参事、勝呉英初代所長を迎え大夕張砿業所として独立したので、北部大夕張開坑事業は一切当所に移管され、超えて7月11日新に鉄道係を設置、沢田技師を鉄道係主任として専用鉄道延長工事を推進することゝせり。
鉄道係事務所は工事の進展に伴い昭和3年5月、明石沢橋梁下流約50米地点に移転し、測量隊の合宿と併置したが、昭和4年10月北部事務所(現本事務所)落成により移転せり。
通洞に至る鉄道予定線は、険崖あり渓沢ありて起伏甚だしく、急速に工事を進むるを得ず、開坑準備に必要の機械、物資の緊急搬入のため、鉄道建設に先立ち、7万余円の予算を持って7哩の馬車軌道を布設のことゝし、大井、梅原の両組に請負決定、5哩65鎖附近の第1期道床工事の完成を待って、昭和2年9月1日より着工せり。
馬車軌道は45封度軌条をもって軌間2呎6吋、5哩65鎖附近に手動巻上機を設置、川側低地まで急坂を降るスイッチバックとし、これより北部に向い6哩70鎖附近に於て鉄道予定線に至り、渓沢は山側を迂廻しつゝ仮桟橋を施設、全力を挙げて工事を進め10月12日通洞附近に達することを得た。
馬車軌道完成により請負人佐藤庄太郎をして機械及び物資の搬入を開始せしが、5哩65鎖附近の馬匹難所である巻上線脇の岩山上に佐藤組馬頭観音を建立せり。
第2期道床工事は5哩75鎖より7哩10鎖に至る1哩15鎖間とし、6哩55鎖までは梅原組、以北を大井組に請負はしめ、昭和2年9月1日着工、翌昭和3年6月15日これを完工せり。
第3期道床工事は7哩10鎖より10哩16鎖に至る3哩06鎖の区間としたが、本工事中最も大なるをもって請負人の人選には相当の考慮を払い、入札の結果小樽在住の橋本組に決定、昭和2年11月4日着工せしが、土質甚だ不良にして法面崩壊のため切取土砂著しく増加、竣工予定期日に遅れる事2旬にして、昭和3年9月21日これを完了せり。
7哩60鎖付近道床工事
※ 7哩60鎖は約12k472m香椎沢橋梁手前約93m
第4期道床工事は10哩16鎖より終点10哩65鎖に至る49鎖の区間とし、第3期工事と同様橋本組に決定、昭和3年7月23日着工せしが、工事区域は全般にわたる湿地帯にして、切土個所より噴出する水量多く、工事甚だ困難を加えたるも、昼夜兼行の努力により同年10月25日漸くこれを完了せり。
渓沢は工事中1号の沢より順7号の沢と仮称せしが、昭和2年11月4日勝呉所長により次の如く名称を付された。
1号の沢 鶯 沢 2号の沢 吉 野 沢 3号の沢 五十鈴沢 4号の沢 香 椎 沢 8号の沢 明 石 沢 5号の沢 旭 沢 6号の沢 竜 田 沢 7号の沢 宝 沢 名 取 沢 初 音 沢
明石沢は当初暗渠布設の予定なりしも、途中これを橋梁に変更のため後これを8号の沢と称し、又名取沢は以前に地形の沢又は鳴海の沢とも称せり。 (地形の沢の語源は地形測量隊より出ず)
鶯沢より宝沢に至る橋梁基礎工事中、鶯沢は梅原組に請負はしめ昭和2年8月18日着工、吉野沢より竜田沢に至る6渓沢は太井組に決定、吉野沢の8月22日着工より順次進められ、同年11月26日これを完了せり。
更に宝沢は昭和3年5月1日大井組をして着工、同月25日これを完工せり。
橋梁は鋼製上路式結構径間48呎及びロ−ル I ビ−ム19呎6吋の2種を使用、橋台は基礎コンクリ−ト上に鋼材を組立てるものにして、本道は勿論全国にも希なものであり、渓沢水路面上100呎以上の高所に架設される様は一大偉観を失わず、全長6哩区間に橋梁の数8箇所を有するもその類例が少ない。
橋桁は横河橋梁会社に於て加工、海路室蘭港を経て南大夕張に輸送、昭和2年12月中旬より昭和3年2月初旬に亘り10数回分送到着、南大夕張より各橋梁現場に至る搬入方法は、南部在住請負人佐藤庄太郎に指定請負わしめ、昭和3年2月初旬より3月初旬に至る硬雪期間中、馬鉄線上に馬橇をもって運搬せしめた。
架橋工事は小樽の橋本組に落札、昭和3年4月1日鶯沢架橋工事着手より順次進められ、8月13日宝沢架橋工事をもって完了せり。
軌条敷設工事は直轄作業として昭和3年5月3日、4哩55鎖より作業開始、トロリ−による繰延法により順次延長し、6月1日に至り6哩70鎖吉野沢附近の馬車軌道との接合点に達し、こゝに用度係の臨時中継倉庫を設け、6月1日から美鉄より借受けの3080号機関車に8屯積無蓋貨車を連結運転、材料及び物資の輸送を行い、以北は馬車軌道により中継搬入せしため、以南の馬車軌道を撤去せり。
更に8月2日より以北の軌条敷設工事を続行、下旬に至り9哩10鎖附近に達し、再び仮中継所をこゝに移して以南の馬車軌道を撤去せり。
9月下旬、軌道敷設は北部駅(現大夕張駅)構内に達し、構内配線工事も完了、11月27日には通洞駅(大夕張炭山駅)構内終点10哩65鎖に達し、当初目標の昭和4年9月完了に先立つこと10箇月にして北部延長工事を竣工せり。
昭和2年は早春より通洞方面に於て熊の出没頻繁にして、入山者常に脅威を感ぜしが、9月8日早朝、定夫中鉢芳治、仝船場石太郎の両名は竜田沢附近に於て工事中、険を犯して巨熊1頭を射殺せり。
昭和3年8月20日、4号香椎沢橋梁上、軌条敷設工事中橋脚附近より原因不明(煙草の吸殻と推定される)の出火により、東南の風に煽られ瞬く間に山手御料林に延焼、一時殆ど絶望と思われたるも幸い風向きの変化と各員必死の奮闘により7、8町歩の延焼に止まり午後1時鎮火せり。
建築列車用蒸気機関車3080号は、元より美鉄に於て運転不能なるものを応急修繕の上、昭和3年6月1日より無理に使用したもので、運転中屡々故障を生じ且つ蒸気漏洩のため6哩間を一気に運転するを得ず、途中停車により蒸気の快復を待ち再び運転を開始する状況にして、9201号蒸気機関車を使用する10月末に至る5個月間を辛じて運転を継続せり。
3080号蒸気機関車
形 式 3080 1C1形タンク機関車
旧所属 鉄道作業局
使用初年 明治20年(1887年)
製造所 鉄道院札幌工場
製造所 Nasmyth Wilson & Co(英)英国製の1C1タンクは他の形式に比しその数少なく、総数22形式中我国に3形式よりない。
10月24日、予て払下出願中の9201号蒸気機関車が到着、これに若干の修繕を加え、10月31日より運転を開始したが、これより先建築列車に便乗する者多く、線路も稍整備せるをもって12月12日から、美鉄より同時払下の客車1両を連結1日4回の運行をなし、更に翌昭和4年2月4日より客車2両を連結運転せり。
北部駅は中心粁程9哩60鎖、主として旅客の乗降及び購買会用品等少量の貨物を取扱うを目的とし、通洞駅は中心粁程10哩40鎖とし、10哩25鎖より終点10哩65鎖に至る大構内とし、一般乗降客を取扱わず専ら石炭積出し及び砿業所用物資の積卸しを行うを目的として5個の配線を行えり。
昭和4年1月22日、従来の大夕張駅を南大夕張駅と改称し、新に北部駅を大夕張とし、更に通洞駅の名称を付せり。
昭和4年5月7日、美鉄より9237号蒸気機関車及びト号車2両の譲渡引渡しを受け、北部選炭場の使用と相伴って昭和4年5月8日、9201号蒸気機関の運転する建築列車をもって待望の北部炭送炭を開始せり。
9201及び9237号蒸気機関車 9200形式銘板
形式 9200 1D形テンダ機関車
製造年 明治38年(1905年)
製造所 Baldwin.Locomotive.co(米)
9201、9237号共に昭和37年末、三菱芦別専用鉄道に譲渡されるまで、34箇年に亘り当鉄道に於て活躍せり。
客車 ハ2、3、4
形式 ハ10形
製造年 明治40年
製造所 帝国鉄道庁新橋工場
自重 8.59t
定員 22人
最大寸法 長サ 7,912mm
高サ 3,339
巾 2,502
ハ2、旧国鉄フハ3391
昭和16年6月苗穂工機部に於て2等車に改造客車用とせるも昭和26年12月1日に復し、昭和35年6月三菱茶志内専用線に通学生用として譲渡す。
ハ3、旧国鉄フハ3392
ハ4、旧国鉄フハ3399
昭和38年8月、鹿島道路開通に伴い鉄道旅客減少せしため廃車するまで35年間に亘り当鉄道に於て使用さる。
昭和4年5月11、12の両日に亘り、鉄道省陸運監督局、佐土原技師及び安永技手により専用鉄道延長工事の監査を終了、5月15日運転開始の認可を受け、5月30日には従来の清水沢・南大夕張駅間に於ける鉄道省の運転管理を解除、6月1日より清水沢・通洞駅間全線を専用鉄道として自営運転を開始せり。
昭和4年8月には清水沢及び通洞駅構内に夫々運転台を設置し、従来の機関車逆行運転を廃止せり。
転車台
清水沢 通洞駅(炭山)
製造年、昭和4年8月(1929年)
製造所、函館船梁株式会社清水沢構内 スル−形下路式転車台
桁全長 60呎(18M796)通洞駅構内 デック形上路式転車台
桁全長 60呎(18M796)
昭和5年7月中旬、予て落石のため運転に支障多かりし青葉峠にコンクリート落石覆設置に着工、11月下旬これを完成せしも更に、昭和10年7月2日南大夕張側へ25米の増設工事に着手、同年9月24日完工せり。
昭和5年8月26日、鉄道係主任沢田技師本店技術部に転任、既に専用鉄道延長工事も完結せるをもって、9月5日鉄道係を廃止し工作係に合併せり。
昭和2年10月6日通洞貫通、昭和3年より4年に亘り、南大夕張坑は経済界の不況と相伴って従業員を整理、南部コ−クス場及び鉄道保線等の60数名を残すのみとし、北部坑移動希望者中より銓衡の上設備一切と共に北部に移転、更に昭和8年4月下旬着工の北部送炭場増設工事を10月26日完成、昭和9年5月北部コークス炉造営に着工し、昭和10年8月コ−クスの製造を開始等、北部大夕張は目覚しい発展をなせり。
もどって昭和7年10月20日、従来の大夕張砿業所清水沢出張所に休養所を加え移築(社起点より150米、清水沢駅より353米地点)執務取扱い開始、新清水沢駅兼出張所と称し開業せり。
昭和9年7月上旬、帝室林野局札幌支局に於て大夕張以奥森林軌道敷設工事に着手せしも、同月30日には当所との協定により、通洞駅構内に御料木材土場入岐線工事着手、昭和10年6月30日完成し翌7月2日より使用開始、以後管内原木の積出に当れり。
当時は専用鉄道なりしため運賃又は岐線料金とせず、岐線料金を含め通洞・清水沢駅間1屯当り搬出料金80銭と協定せり。
後昭和14年11月20日には南大夕張駅構内に、昭和15年9月1日には遠幌駅構内に御料岐線を敷設、今なお夕張岳山麓の原木搬出を行えり。
昭和9年10月1日より特殊事項を除きメ−トル法を実施、専用鉄道の哩程を廃止し総て粁程に改正せり。
遠幌加別川橋梁は明治45年10月竣工せしものなるが、昭和9年橋脚に亀裂あるを発見架替のことゝし、その昔馬鉄当時吊橋のありし個所に昭和9年10月着工、昭和10年1月18日完成、更に軌条敷設及びペンキ塗装工事の残工事を4月25日より着手し、同年5月19日完了に付試運転の上即日列車の運転を開始せり。
本工事により従前の橋梁前後の曲線は修正され直線とせり。
旧橋梁橋脚残虚 新遠幌加別川橋梁
昭和8年8月 6日以来の降雨に引続き7日夜来の豪雨により専用鉄道各所損壊、4号香椎沢山側土砂崩壊のため、8日午前8時直前橋梁橋脚倒壊し列車運転不能となり、昼夜兼行復旧に当り30日に至り工事落成、31日午前7時より列車の運転を開始したが、比の間出炭は抗外貯炭とし操業を持続せり。
香椎沢橋梁流失
当所石炭の増産を唱える折柄、葡萄山隧道前後の路線勾配が鉄道輸送力を阻害するため、隧道を廃止する目的を持って昭和8年10月16日より隧道附近前後の勾配並びに曲線修正による外線工事中の処、軟弱な土質を切土のため昭和9年4月6日朝隧道内煉瓦積に亀裂を生じ、翌7日午後5時10分頃中央部約27間(約49米)に亘り崩壊交通杜絶せり。
よって昼夜兼行応急対策として夕張川岸の断崖に枕木サンドルによる迂廻仮線を布設、17日午後6時仮工事を完成同30分列車の運転を開始せしが、この間出炭は抗外貯炭として操業を継続せり。
後外線附近改良工事に着手、昭和8年9月落成のため15日午後4時切替を行い、更に夕張川岸擁壁設置工事に着手、一部を残し10月中旬完成、残工事は昭和10年7月完成引続き伏樋工事に着手10月23日悉く完成せり。
後昭和36年4月、営林署より要請あり隧道前後を閉鎖せり。
昭和10年1月22日夕刻より大吹雪となり、翌23日も依然猛烈となり専用鉄道各所に吹溜りを生じ列車不通、24日に至るも開通不能のため1、2番方共採炭休業、総動員をもって除雪に当り消防組その他の援助により全線に600余名を配し復旧に努め、同日午後9時漸く列車の開通を見、吹雪は24日午後10時漸く止めり。
本雪害事故に鑑み昭和11年7月、国鉄に於て廃車とせる木製雪掻車(形式キ1 番号28)を払下げ入線、昭和15年胆振縦貫鉄道に譲渡売却する迄4ヶ年に亘り、当鉄道の降雪期路線の安全を確保せり。
キ、28
形式 キ1 番号28
製造所 鉄道院札幌工場
製造年 大正元年
自重 20.3屯
鉄道院ユキ50を28に改め、後胆振縦貫鉄道に譲渡後、昭和19年7月国鉄買収により、国鉄キ87となるも昭和28年10月廃車となる。