渡邊二郎『歴史の哲学 ー現代の思想的状況』(講談社学芸文庫)

渡邊二郎氏は、東京大学文学部名誉教授で、哲学の研究者です。専門は、ドイツ哲学やフランス哲学で、必ずしも「歴史家」ではありません。最近読んだ野田宣雄『歴史をいかに学ぶか』の中では、野田教授は哲学者が主張する「歴史哲学」に批判的で、より実証的な歴史学の重要性を主張しています。他方で、林健太郎『史学概論』の中では、林氏は、歴史家が緻密な実証研究ばかりではなくて、理論(ここでは歴史哲学を指す)を持つ必要を説いています。

果たして、歴史家は、歴史哲学や、歴史理論を理解すべきでしょうか。このような設問に対して、僕は、「イエス」と応えることにしています。

歴史哲学や、歴史理論は、単なる知的「お遊び」ではなくtえ、世界をどのように見るか、という「世界観」の問題でもあるからです。我々は、無意識のうちに、ある歴史観の上に立っている。それを知らずして、「私は、歴史哲学など興味がなく、実証研究だけが重要だと思う」といっても、それは「汝自身を知れ」ということになりますね。無意識に、ある「世界観」に乗っていることほどこわいことはない。自分が立っている、その土台を見つめ直すには、その土台である「世界観」を相対化するために、色々な歴史哲学を知る必要がでてくるわけですね。

例えば、日本の中学・高校の歴史の教科書の多くは、ヘーゲル的な進歩史観、そしてときにはマルクス・レーニン的な資本主義批判、帝国主義批判、としての歴史観がでてきます。日本の歴史学は、知らず知らずのうちに、このようなヘーゲル・マルクス的な、観念論的な進歩史観に「毒されている」わけです。

他方で、ブローデル的な、そしてウォーラスティン的な世界システム論を語るときに、フランスのアナール学派の社会経済史学を知らなければ、それが「当たり前」の歴史観になりかねません。アナール学派が、ランケの実証史学に対する批判として、壮大な世界史をつくったという系譜を最低限は理解する必要があるのでしょうね。

ということで、日本では、無自覚な「歴史哲学」が蔓延している一方で、歴史哲学があまり流行りません。

歴史哲学についての概説的な著書を書くためには、上記のような歴史観から距離を置いて、相対化する必要がありそうです。僕の場合は、ランケ実証史学の系譜を引く、イギリスの歴史観に非常に強い影響を受けています。また、『史学概論』の林健太郎氏も、やはりランケ実証史学の系譜を引いているために、遠慮はしながらも、かなり強烈なヘーゲル・マルクス史学を批判しているところがあります。他方で、渡邊二郎氏は、歴史家ではないために、特定の「歴史観」を絶対視することなく、相対化することが出来ます。ですから、この著書を読んでいて、ある程度気持ちよく、安心して読むことが出来るのですね。

この著書を、僕が最も気に入ったのは、カーやクローチェ、コリングウッドの系譜の、「生きた歴史」、あるいは「過去と現在の対話」としての歴史を重視しているからです。つまり、ただ資料を集めるだけの「死んだ歴史」は全く価値がなく、現代的意味もない、無味乾燥なものであるのに対して、カーやクローチェは、現代的な問題意識を大切にしているわけですね。歴史をやっているとやたらと、「客観性!」ということが叫ばれるばかり、そのような「死んだ歴史」になってしまいます。しかも、「客観性!」といっておきながら、実はヘーゲル史観やマルクス史観にどっぷりと無自覚につかっていたりする。

僕の場合は、あまり歴史哲学に深入りするつもりはないのですが、イギリスで歴史学を大学院で学ぶ場合に、まず最初にこのような「歴史哲学」、あるいは、「歴史学の歴史」を学ぶことが多いようですね。ただし、イギリスで歴史を勉強すると、どうしても、ランケ実証史学の系譜をひいきしてしまいますが。

歴史学を学ぶ場合にも、政治学を学ぶ場合にも、まず最初に自分自身がどのような思想的系譜に依存しているかを理解する、つまり「汝自身を知る」ことが重要なのでしょうね。



(2000年2月9日)